温泉三昧の記 ――― 川根温泉紀行
2015年の立春も過ぎた2月5日~6日、有志7人で温泉三昧と銘打って旅に出た。
午前6:00 小雨降るまだ薄明りの中、幹事の車は馬堀海岸を出発した。東海岸から西海岸近くまでに大きく蛇行して横浜までの間に6人を拾い、東名に入った。目指すは島田市川根温泉コテージ。
東名に入ると、雨はやや激しくなり、箱根越えではついにみぞれ交じり。凍結防止剤を散布したという警告表示に先行きが危ぶまれたが、沼津PAに着くころには曇り空になり、ほっとした。
静岡インターで降りると、車は一路魚河岸市場へ。市場の中を一巡して今晩の自炊用に目ぼしいものの買い出し。そして、市場の中のレストランにて漁師用丼飯の昼食。
そこから島田市へ向かい、さらに大井川沿いを上流に向かって進む。川根温泉道の駅に寄り、買い出しの追加、そして川根温泉コテージを一回りして、そのまま通過しさらに上流に向かう。上流には寸又峡がある。
大井川沿いを上って行くと、3つの景観が目に留まる。(1)河川の中の砂利の採集と集積の山。大井川が長年の間に残した財産か? (2)吊り橋マップ。などというものがあるほど、あちこちに吊り橋が見受けられる。これも大井川の広さを物語るものであろうか? そして、(3)山の斜面や庭先まで延びる茶畑。このあたりは、川根茶の地元。庭先まで延びる茶畑は、同じく庭先まで延びていた往年の桑畑を彷彿させてくれる。懐かしい。
こんな景観に見とれているうちに、車はUターンして、食料品店やコンビニに立ち寄り、また追加の買い出し。このドライブは、寸又峡見学ではなく買い足しのドライブであったのだ。ドライブの目的がようやく分かった。寸又峡見学ができないのは残念であったが、自炊の準備は整った。土鍋、ガスボンベ、炭、コックさんは用意されているので、準備は万端である。
午後5:00 川根温泉に再び到着。荷物をコテージに運び込む。コテージは2階建て、1階のリビングの前に露天風呂があり、すでに湯けむりが上がっている。運び込みが終了すると、すぐに温泉三昧が始まり、コックさんは料理の下準備を始める。
コテージ前には、大井川と大井川鉄道の鉄橋が見える。後ろには、大井川鉄道の線路があり、山裾から線路際まで茶畑が延びる。
午後5:30 乾杯をして、炭火焼のしいたけに舌鼓をうった。就寝は10時を回っていたので延々5時間のにぎやかな合宿であった。料理は、刺身、炭火焼、鍋物、しかも包丁さばきの鮮やかなコックさんの手料理。ホヤの刺身、しいたけ、金目鯛の炭火焼、それに、つみれ、野菜もしっかりと入った鍋物が次々に出てきて、最後に鍋汁で煮たうどんなど、どれも旨く余すことなく食べ尽くしてしまった。これは、名コックさんの手料理だからであろう。只々感謝。
この間、黒くどんよりとした曇り空の中で、それぞれに温泉三昧としゃれ込んだ。曇り空から少女がはにかんだように顔をときどき見せる月を楽しみながら、3回の湯浴みをした。温泉三昧といえるのであろう。しかし、源泉かけ流しで雪見酒の風流を楽しめるはずが、天気予報が外れてそれがかなわなかったと嘆く御仁もいた。
翌日は快晴。朝食をとり、大井川沿いを下って着いたところが蓬莱橋の袂。この蓬莱橋は、大井川に架かる木造歩道橋で全長897.4m(厄なしの語呂で縁起がよく人気のある橋だという)、ギネスブックに登録されている。さすがに「越すに越されぬ大井川」と謳われた大いなる河川である。
この蓬莱橋が架けられたのは明治12年1月13日。徳川家は、慶応4年5月に駿河・遠江70万石へ移封され、この地に移ってきた。そして、幕臣たちは、大井川の対岸にある牧之原台地を開拓して茶の栽培を始めたのである。茶の栽培の目途が立った時、島田宿の方へ買い物に出掛ける便を考えて蓬莱橋を架設したのだという。蓬莱橋という名称は、当時静岡藩主となった徳川亀千代(後の家達)が1870(明治3)年4月に牧之原を開拓している幕臣達の激励に訪れた時に、「ここは宝の山だ」と仰せられたのがそのいわれという。
ここにきたからには、神仙郷とも関係のあるらしい橋を、また、「越すに越されぬ」と言われた川を越えてみたいとの欲望にも駆られ、渡ることになった。
渡り始めて見ると、大井川はこのあたりでは4本の支流に分かれている。やはり大きな川である。しかし、この川に水力発電用のダムがいくつもでき、川床が干上がり河原砂漠といわれる時代があったのだという。電力会社との交渉で各ダムから規定量の放流をしてもらうようになったのだという。しかし、まだ、水量は少ないようである。「越すに越されぬ大井川」も水問題に悩まされているようである。
約900メートルの渡橋をしてみると、中州に雑木林があったりして、川の広さを実感できる。
蓬莱橋を往復して、国道一号線を上り、次に着いたところは、東海道五十三次「鞠子宿」丁子屋といかめしい看板を掲げ、今時珍しい茅葺屋根の老舗。いずれも歌川広重の東海道五十三次の浮世絵そのままだという。慶長元年(関ヶ原の戦いの4年前)創業というとろろ汁の元祖である。
芭蕉の「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」の句に因んだのであろうか、近くに梅林があり紅梅が綻んでいた。十返舎一九は、『東海道中膝栗毛』の中で、弥次さん喜多さんを店に入れ、店の夫婦の口げんかの挙句、こぼしたとろろで滑って転んでしまう様子をみて「けんくはする夫婦は口をとがらせて鳶とろろにすべりこそすれ」と言わせたという。
店の夫婦の口喧嘩は見ることはできなかったが、自然薯のおいしいとろろ汁で昼食。この店は、(1)とろろ汁一本でやってきて、今後もそれを守ろうとしている、(2)歴史的背景を勉強し、藁葺屋根などを復活させた、(3)“丁子屋が自然薯を買うので山が荒らされる”との風評にショックを受け、材料の自然薯を栽培することを思いつき、8 年間県内全域を走り回り、自然を科学した生態系農法へと発展させた(今はNPO「自然生の会」に拡大しているという)、などの努力を前社長が行ったのだという。町おこしである。
丁子屋を出て、東名から新東名に乗り換えて横浜に向かう途中、昨日は顔さえ見せてくれなかった富士山が姿を見せ始めてくれた。今回の旅は先憂後楽の旅であり、温泉、ドライブ旅行、魚市場見学と買い出し、漁師用丼飯、美味しい手料理、弾んだ合宿の話題、それに歴史散歩あり、社会見学あり、町おこしの実例見学ありの盛りだくさんの楽しい旅でもあった。すべてが手作り、その楽しさであったのかもしれない。企画、運転、合宿の司会、手料理、会計等の役割を担った幹事さんたちのご苦労に多謝。