季節
谷の鶯
個人会員 奧谷 出
早春賦と谷の鶯
<谷の鶯>という言葉は「早春賦」に見られる。 1913年(大正2年)に発表された吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌注1)である。2006年から2007年にかけて文化庁と日本PTA全国協議会が選定した「日本の歌百選」に選ばれている。
長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、旧制長野県立大町中学(長野県大町高等学校の前身)の校歌の制作のために訪れた吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌詞でもある(『ウィキペディア』早春賦)。
春は名のみの風の寒さや
谷の鶯 歌は思へど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず
【立春は過ぎたのに春とは名ばかり、風は冷たく寒い。まだ鳴くべき時ではないと声すらも立てない、という意味である】
歌詞とは異なるが、鶯は<寒いから鳴かない>のではない。鶯は分泌されるホルモンによって鳴管を収縮したり拡張したりしてさえずるが、早春には受光量がまだ十分でなく、従ってホルモンの分泌が不足し本来の鳴き声を出せないと考えられている。
「行灯で鳴けば室では笑っている」という江戸時代の川柳がある。鶯は部屋の中で鳥籠に入れられ、行灯の灯を当てられて正月に早鳴きさせる。一方、梅の木は鉢に植え、これも部屋の中に置き正月に咲かせるという趣向である。この川柳は受光量によって鳴くタイミングが変わることを示している。
これも歌詞とは異なるが、鶯は<声をたてない、すなわち鳴かない>ということではない。これは、菅原道真の早春内宴の漢詩「鶯谷を出づ」の影響であろうか。(井原西鶴が使った用語に<手振り鶯>という言葉がある。鳴けないので手振りで対応するということである。)あるいは、<声を立てない>とは誇張表現であろうか。
早春には、ホルモンの分泌が不足しているため、「ホ-ホケキョ」と鳴けず鳴きそこなう。いろいろなパターンの鳴きそこないがあり、それらの鳴きそこないを、<宝法華経>とか<苔藤(コケ節?)>といって珍重されていた(『本朝食鑑』鶯)。これも、鶯が愛でられていた痕跡の一つであろう。
鳴きそこないの一つに「ホホウ」という聞きなしがあり、十返舎一九の次の和歌が知られている。
春若みまだ鶯も片言に
ほほうほほうとほむる梅が香 (『春色梅兒誉美)』)
【春はまだ早い。鶯も本格的には鳴けず、片言で「ホホウホホウ」と感嘆の声を発して、咲く梅の香りを誉めそやしている、という意味である。】
著者は非常に珍しい、<ホホウ>の百囀り(合唱)を聞いたことがある。三浦縦貫道大田和料金所付近の灌木林、その頃はまだ縦貫道の工事中であったが、そのあちらこちらから
<ホホウ>、<ホホウ>…………<ホホウ>
と聞こえてきた。散歩中に偶然にこの百囀りに出会ったのであるが、低音であったので異様な鳴き声に聞こえ、不気味でさえあった。すると、<ホーホケキョ>という鳴き声が聞こえてきて、鶯の百囀りであることがわかり一安心した次第である。これは、2回目の百囀りの貴重な体験であった。
鶯は、古来谷に住んでいて春になると、古巣の谷を出て行くものとされ注2)、西行の和歌に次のものがある。
春のほどはわが住む庵の友になりて
古巣な出でそ谷の鶯 (『山家集』春)
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注1) 『尋常小学唱歌』の作詞委員会代表であった吉丸一昌が、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけ、『新作唱歌』として発表した中の一作(『ウィキペディア』早春賦)。
<ホーホケキョ>の聞きなし(鳴き声)は、仏教の興隆の中で生まれたものとされるが、明治初期の廃仏毀釈運動で仏教は甚大な損害を被り、人心は荒廃したといわれる(『ウィキペディア』廃仏毀釈)。そして、<ホーホケキョ>の鳴き声が仏教の興隆の中で生まれたものということが多くの人から忘れ去られていることは、鶯もその影響を受けたであろうことが推定される。
その鳴き声を、東京音楽学校の伊沢修二らが中心となって進めた明治時代の音楽教育の中で幼稚園や尋常小学校の唱歌として取り上げ、復活させていくが、そのときには仏教色は消え、経読鳥の異名も忘れ去られたーーーそれが「ホーホケキョ」の聞きなしについての著者の認識であり、この認識は「ホーホケキョ」の聞きなしの理解において重要である。そして、<早春賦>もそのような役割を担った唱歌の一つである。(なお、伊沢修二は小石川鶯谷の近くに居住していた。そのことも関係するのかもしれない)
注2) 文学や民俗学の世界では、鶯は古来谷に棲むものとされ、山の神説がある。一方、東アジア一帯の鶯は渡り鳥といわれる。日本では、一カ所に留まる留鳥、あるいは近くの山と平地の間を行き来する漂鳥といわれている。従って、冬に幽谷に棲んでいるということはない。
谷に棲むという説は、古来の農耕信仰である<春秋去来の伝承>に依拠するのではないかと思われる。この説は、山の神が春の稲作開始時期になると家や里へ降りてきて田の神となり、田仕事にたずさわる農民の作業を見守り、稲作の順調な推移を助けて豊作をもたらすとする信仰であり、全国各地に広くみられる(『ウィキペディア』田の神)。
谷の鶯とは
詳細は後述するが、<鶯>という鳥が漢詩に広く詠まれることが定着したのは初唐である(渡辺秀夫の論文「谷の鶯――歌と詩と」(『中古文学』1978 年 21 巻))。その論文によると、<谷の鶯>には次の4つの解釈がある。
一つ目は、<深い谷を出て早春を報らせる鳥(景物)>ということである。春告げ鳥ともいう。中国伝来の報春鳥という異名もある。
著名な和歌として、
鶯の谷より出づる声なくは
春来ることを誰か知らまし
大江千里(『古今和歌集』・春上-14〉
より古い万葉時代の和歌として
足引の山谷越えて野づかさに
今は鳴くらむ鶯の声
山部赤人(『万葉集』巻十七・3915)
二つ目は<出谷を悔やむ籠の鶯>。谷は旧居の喩え、籠の鶯は捕らえられて籠に入れられ自由を束縛された鶯の意で、旧居を出たことを後悔する人の喩である。
井の鮒は泉に反(かえ)らんことを思ひ、
籠の鶯は谷を出づることを悔ゆ
白居易(『白氏文集』巻十・孟夏、渭村の旧居を思ひて舎弟に寄す)
渭村(今の陝西省渭南市北)は白居易の家族が住んでいた村で、元和六年(811)に母が亡くなった折、白居易はここに帰り、三年間喪に服していた。その後、江州司馬に左遷された。「孟夏、渭村の旧居を思ひて舎弟に寄す」の漢詩はその頃に作られた漢詩である。
三つ目は、谷は暗く寒い場所と考えられるところから、谷住まいする鶯を不遇とみなし、不遇を嘆く人の喩である。
① 紀貫之がスポンサーを失って失望しているときの和歌
ゐて伝ふ花にもあはぬ鶯は
谷にのみこそ鳴きわたりけれ 紀貫之(貫之集巻九・雑)
【伝えてくれる花に出会うこともない鶯は谷の中だけに鳴きわたればよいでしょう】
② 菅原道真が大宰府に流謫後の和歌
谷深み春の光のおそければ
雪につゝめる鶯のこゑ 菅原道真(『新古今和歌集』雑上・1440)
【深い谷は春の光が射すのも遅いので、鶯の声は雪に包まれて外に伝わることはないでしょう。<雪につゝめる鶯のこゑ>は道真の悲嘆の声と考えられている】
四つ目は、谷の鶯を暗く寒い谷にいる鶯とみなし、科挙の受験のために勉学する受験生の喩えである。
<小苑の春、宮池の柳色を望む>や<鶯谷を出づ>という、中唐の科挙(進士コース)の詩題が知られており、出題の意図は進土及第を願う気持を問うものといわれる。進士及第は<鶯遷>や<遷鶯>と呼ばれたことが、晩唐の『尚書故実』に記されている。
次回は「鶯の原典とその展開」へと続きます。