ウグイスの語源説考

 ウグイスという日本語の語源として、鳴き声を写したものとする鳴き声語源説が現在ではほぼ定説になっているが、問題があり否定するに至った。そこで、それに代わる高い価値を有すると思われる仮説を紹介したい。
 Webサイトが発明される数年前、昭和59年(1984)に発行された清水秀晃著『日本語語源辞典: 日本語の誕生』に記されている「穿ぐい栖語源説(穿ぐひ栖語源説)」である53)。   
 この語源説を取り上げている論文や書籍を見たことはなくほとんど知られていないものと思われる。その理由として、この語源説は、辞典の中でウグイスの説明として発表するスタイルをとっていることが推定される。論文等で発表するなどの形式をとっていないのである。しかし、発表のスタイルや形式は別にして、この語源説は、ウグイスに関連する多くの言葉の由来を語ってくれ解き明かしてくれるので、魅力的でスケールの大きな語源説と考えられる。
 辞典の監修者は、「漢字の字形が異なっていても字音が同じであれば何らかの意義の共通性がある」とする単語家族説を提唱した中国語学者、中国文学者の藤堂明保(『ウィキペディア』藤堂明保)である54)
 著者は、銀行に勤務のかたわら35歳から日本語の語学研究を始め、その後、藤堂門下生となった、といわれる。

 『日本語語源辞典』に記される穿ぐい栖語源説の要点は次の4点である。

  1. 「穿ぐひ栖」のうち「ウグヒ」は「ウグ(穿)」の再活用「ウグフ」の転。「ス」はカラス・カケス・ホトトギス・キリギリスなどの「ス」と同根で、音をたてる鳥また虫を意味する。
  2. 「穿ぐ」とは中央内部をウカツこと。因みに、「穿つ」とは、うがつ(内離つ)。古くは清音でウカツである。「ウ」はウチ(内)の義。「カ」は「かる(離る)」の語幹。内部を分離する意。穴をあけること。
  3. 「ウグヒス」とは、声のみ聞こえて、なかなか姿を見せず、藪などに穿ち隠れて栖む鳥のこと。 
  4.  この説を裏付ける和歌として次のものを挙げている。 
     春されば木末(こぬれ)隠りてうぐひすそ
         鳴きて去(い)ぬなる梅の下枝(しずえ)に
     少典山氏若麻呂(『万葉集』5-827)

 この仮説は、「穿」という漢字を用いて、ウグイスが枝から枝を伝い飛びする様子を、樹間を穿っていると捉えているところに特徴がある。ウグイスの生態に関する仮説であるが、他の語源説で「穿」という漢字を用いる説は存在しない。
 この仮説は、「穿」という漢字を使って語源説の文法的な説明をし、そののちに、2.で「穿」の意味を、3.でこの字に関わるウグイスの生態を、4.でその生態に関連する和歌を取り上げ裏付けを行い、説明を強化している。

 2.によって、ウグイスに関わる種々の言葉との関わりが明らかになり、この仮説を魅力的にしている。「穿ぐ」とは中央内部をウカツことと意味づけており、「鶯(おう)は「央」に通ず」といっている53)。これは、藤堂明保の単語家族説にも適合している。ウグイスというと宮殿とか雅ということが関わってくることが、この説から推定できる。詳細については後述する。

 3.に、「声のみ聞こえて姿を見せず」とある。こういう生態の鳥はウグイスだけではないが、ウグイスというとこういう捉え方が多いのも事実であり、その由来を語ってくれる。

 『日本鳥類大図鑑』55)では、ウグイスの一般習性について次のように記している。

 四季を通じて雄雌または単独で生活し、群棲することはない。一定の領域(縄張り)を占有するが、範囲は比較的せまいらしく、小区域に多数の鳥(一夫多妻)が生息する。樹上生活を主とするが高い梢に止まることはまれで、灌木やササの茂みの間をあちこちとくぐって餌を探すことが多い。囀鳴するときには笹薮や灌木の樹上でさえずるのが常であるが、ときには喬木のかなり高い枝上でさえずることもある。体を左右に活発に動かしつつ枝から枝に移って渡り歩き、飛翔時には高空や長距離を飛翔することはまれである。翼を羽ばたいて飛翔し、滑翔することはない。

 この語源説はこういう事実に基づいて構築されているので、理解しやすいと思われる。

 4.は、3.の裏付けとなる資料と考えられ、天平2年(730)旧暦1月13日に大宰府の大伴旅人邸で催された梅花の宴で詠われた32首の和歌56)のうちの一つであり、歴史的にもよく知られた和歌である。
 後述のように、裏付け資料と思われるものもあり、またウグイスに関わる謎が解明されるという波及効果もあり、魅力的な説と思われる。今までに顧みられなかったことが、むしろ不思議である。

(1) 「穿ぐ」から類推される振舞いを示す『万葉集』の和歌
 前述の和歌は、穿ぐい栖語源説の裏付けとして、『日本語語源辞典』に記されているものであるが、そのほかにも、『万葉集』には「穿ぐ」から類推されるウグイスの振舞いを示す和歌が数多く存在する56)

  1. 我がやどの梅の下枝(しずえ)に遊びつつ
          鶯鳴くも散らまく惜しみ  薩摩目高氏海人(『万葉集』5-0842)
  2. 鹿背の山木立を茂み朝さらず
       来鳴き響(とよ)もす鶯の声 田辺福麻呂(『万葉集』6-1057)
  3. 春されば妻を求むと鶯の
        木末(こぬれ)を伝ひ鳴きつつもとな (『万葉集』10-1826)
  4. 梅が枝に鳴きて移ろふ鶯の
        羽白妙に沫雪ぞ降る (『万葉集』10-1840)
  5. 鶯の木伝ふ梅のうつろへば
      桜の花の時かたまけぬ (『万葉集』10-1854)
  6. いつしかもこの夜の明けむ鶯の
         木伝ひ散らす梅の花見む (『万葉集』10-1873)
  7. 山吹の茂み飛び潜(く)く鶯の
       声を聞くらむ君は羨(とも)しも 大伴家持(『万葉集』17-3971)
  8. 袖垂れていざ我が園に鶯の
        木伝ひ散らす梅の花見に 藤原永手(『万葉集』19-4277)
  9. うち靡く春ともしるく鶯は
        植木の木間を鳴き渡らなむ 大伴家持(『万葉集』20-4495)

 『万葉集』に、このような和歌が集中することを不思議に思っていたが、その謎が解けたように思われる。
 その理由の一つは、これらの和歌は、「穿」という漢字を使った「穿ぐひ栖語源説」に由来していると考えられることである。
 二つ目は、「ウグイス」という日本語が誕生した時期に近いということであろう。前述の通り、ウグイスに関する和歌は柿本人麻呂によって最古の和歌が詠まれており、その年代は平城京遷都以前と考えられることである。「うぐいす」という言葉は記紀には登場しないことから、人麻呂が和歌を詠まれた頃に誕生したものと推定される。それは、『万葉集』の第二期」といわれるので、『万葉集』に類似の和歌が多く詠まれることになったのであろう。
 また、それらの言葉の中に「木伝い(こづたい)」という言葉が見られる。この言葉は、鳥が枝から枝を伝い歩くことであり、『古今和歌集全評釈』では、ウグイスに特化して使われることが多いといっているが57)、「穿ぐひ栖語源説」を用いればその由来は自明である。

(2) 「鶯、谷より出づ」の漢詩
 菅原道真には、「鶯、谷より出づ」の詩題で詠まれた漢詩がある。その中に「穿つ」という言葉が見られる。漢詩文集『菅家文草(かんけぶんそう)』に収録され、醍醐天皇に献上されている。

 誌題の「鶯、谷より出づ」とは、中唐から晩唐の時代に科挙の試験に出題された命題で、儒教の経典『詩経』の漢詩「小雅・伐木篇」を道徳的な教訓詩と考える当時の風潮に基づいた解釈を問うものである(『尚書故実』、『詩歌の森』)。伐木篇の漢詩を典拠にしているが、科挙への合格の志を述べた漢詩である。これらの漢詩から「進士の及第」を意味する「鶯遷(おうせん)」という言葉が生まれている59,60,61)
 日本においても、醍醐天皇の昌泰 2 年 (899) 正月の早春内宴の誌題として取り上げられ、菅原道真がそれに応えたものである。
 なお、早春内宴とは、四季の正常な循環こそ豊穣な稔りにとって重要なこととする陰陽五行説の思想に基づき四季を適切に招く行事の一つで春を招来する行事であり、為政者の務めとされていたものである(『吉野裕子全集』)62)

 道真の漢詩の正式名は下記のように長いものである。

 早春内宴に、清涼殿に侍(はべ)りて同(ひと)しく「鶯、谷より出づ」といふことを賦(ふ)す
                                 菅原道真(『菅家文草』) 
 鶯兒(おうじ)、敢(あ)へて人をして聞かしめず
 谷を出で来(きた)る時 妙文に過ぎたり
 新路は如今(いま)し 宿(のこ)んの雪を穿(うが)つ
 舊巣(きゅうそう)は為後(こののち)春の雲に属(あつら)ふ
 管絃の聲の裏(うち) 啼きて友を求む
 羅綺(らき)の花の間 入りて群を得たり
 恰(あたか)も明王の穏を招く處(ところ)に似たり

 この漢詩の中に「鶯兒(おうじ)、敢(あ)へて人をして聞かしめず、谷を出で来る時妙文に過ぎたり。新路は如今し宿んの雪を穿つ」という詩句が見られ、「穿つ」という言葉が用いられている。ウグイスは谷にいるときは鳴かず、人に聞かせることもないが、谷を出るときには大変な美声になり、残雪を穿って作った新路を進んで行く。その行く先は宮殿である。「管絃の聲の裏 啼きて友を求む 羅綺の花の間 入りて群を得たり」という表現は、宮殿で多くの美女が管弦を引いて歌っている様子を示している。
 ここで、「穿つ」とは、語源説の要点2.で示されるところの「中央内部を穿つこと」を示しており、宮殿に結び付いている。また、「鶯は央に通ず」からも宮殿と結び付く。
 このことから、この漢詩は穿ぐい栖語源説の裏付けの役割を果たしていると推定される。


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