ウグイスの語源説考

 前章では、ウグイスの古称といわれる「法吉鳥」という名前とウグイスの語源が誕生した時期について考察したが、本章でもウグイスの語源の誕生時期に関する話題を取り上げる。

 Webサイトを検索していたところ、大正5年発行の吉沢寛夫の単行本『うぐひす』37)が見つかった。この書籍の「ウグイスの飼育の沿革」・「歴史にある鶯(うぐひす)」という節には次の記述が見られる。

 わが国で鶯を飼育したのは、神功皇后の御宇大和国三笠山に住める国栖の翁が月星日と三光に啼く鶯を造って武内の大臣に贈ったのが、歴史に顕れた始めである。大臣はその妙なる音を深く賞して之を皇太子に奉ったのである。その後翁は三笠の山の滝の辺りから雛を捕って之に三光の音を教えて應神天皇に奉ったことは古書に記してあるが、今も三笠山には鶯の滝や鶯塚などの古跡が残っている。
 その後しばらくは三光に啼かしておったが、保元年間になって
   吉御代ヒー
と鳴かして翫賞しておったがこれより130年ほど経って弘安年間鎌倉時代になって
   吉ビヨヒイー
と音色は変わり、足利時代になっては茶道の流行に連れて一層翫賞せらるるようになって東山公にも当代の名鳥を養われて愛寵せられたとある。(うぐひす – 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp))。

 これによると、神功皇后の御宇に、国栖(くず)の翁が三笠の山の滝の辺りでウグイスの雛を捕獲し訓練して、三光の音を鳴くウグイスを飼育して武内大臣や應神天皇に贈ったことが記されている。
 三光の音を教えて訓練したという伝承は、奈良市の市章の由来にも見られ(市章・市旗 – 奈良市ホームページ (nara.lg.jp))、その伝承との関係が推定されるが、神功皇后の御宇ということについては、新しい事柄である。

  1. 神功皇后の御宇にウグイスという名前の鳥の存在性について
     神功皇后は実在したとすれば4世紀後半頃とみることができるが(神功皇后 – Wikipedia)、神功皇后の御宇に「うぐひす」という名前の鳥が存在していることは、下記のことから疑問を感じる。
    1. 記紀には、ウグイスについての記載が見当たらないこと。
    2. 単行本『ウグヒス』には、古書に記されているとあるが、出典が記載されていないため、真偽が定かにならない。
    3. 前章で説明したように、鶯の古称は法吉鳥で、6世紀後半には出雲国に法吉鳥は存在していたと考えられる。
    4. これも前章で説明したことであるが、ウグイスという名前は平城京遷都以前、すなわち万葉集の第2期には存在していた。
  2. 神功皇后の御宇、保元年間、弘安年間の時代間隔について
     神功皇后の御宇、保元年間(1156~1159)、弘安年間(1278~1288)の三つの年代が見られるが、保元、弘安の間隔に比べ神功皇后の御宇、保元の間隔が開き過ぎて不自然である。
     「月星日」の鳴き声は、保元年間に「吉御代ヒー」と鳴かせ、弘安年間には「吉ビヨヒー」と鳴かせたという伝承について、その時代背景を考察してみよう。
     
     日本では、永承7年(1052年)を末法元年として末法の時代に入った(末法思想 – Wikipedia)、といわれる。末法思想は仏教思想である。
     保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至り、保元の乱が起きている(保元の乱 – Wikipedia)。この戦乱は平安時代になって初めて起きた戦争であり、末法思想が描く暗黒の世界が現実のものとなり、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった(末法思想 – Wikipedia)、といわれる。
     承安5年(1175年)に、法然は43歳の時に浄土宗を開いている(浄土宗 – Wikipedia)。末法濁世の衆生は鎌倉仏教を信奉することにより救済されるといわれる鎌倉仏教の始まりである。
     弘安4年(1281年)には、2度目の元寇、すなわち弘安の役が起き、社会は混乱を深める(元寇 – Wikipedia)。建長5年(1253年)に日蓮宗が開かれる(日蓮宗 – Wikipedia)。

     以上のことから、「月星日」の鳴き声が変わって行くのは、末法思想や鎌倉仏教が背景にあったと推定される。
     また、『毛吹草』に「夜も鳴け名は三光の鳥の声」という俳諧があり、三光の鳥は「暗い」ということと関係していると推定される。
     
  3. 故事や伝承などの権威付けのための作為
     一方、故事や伝承などは権威付けのために古い時代に恣意的に結びつけることが行われたといわれており、神功皇后の御宇ということについても、その出典が不明であることもあって、恣意的に結び付けられたと考えられる。
     そう考えると、「月星日」の鳴き声が誕生したのは、前述のこともあり、神宮皇后の御宇ではなく末法元年の頃ではないかと推定される。
     
  4. 「吉御代ヒー」「吉ビヨヒー」の鳴き声の意義
     「吉凶はあざなえる縄の如し」という諺がある。保元の乱や元寇によって暗い末法の世という凶の御代になってしまったので、ウグヒスに吉御代ヒー(日)や吉ビヨヒー(日)となること、すなわち「吉」の世となることを託したとも考えられる。

 暗い末法の世に月星日などの三光の光明に救いを求める美意識は、「釈迦の月は隠れにき、慈氏の朝日はまだ遥かなり、その程長夜の闇(くら)きをば、法華経のみこそ照らい給へ」という『梁塵秘抄』194番の今様や、和泉式部の「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、遥かに照らす山の端の月」という和歌(『拾遺和歌集』哀傷・1342)に窺える。和泉式部の和歌は、『法華経』化城喩品(けじょうゆぼん)の「冥(クラ)きより冥きに入り、永く仏名を聞かず」を踏まえたものといわれる(『学研古語辞典』「くらきよりくらきみちにぞ」)。

 なお、三光の鳴き声には、月星日(『犬子集』)、日月星(『広辞苑』三光、市章・市旗 – 奈良市ホームページ (nara.lg.jp))、月日星(『日本国語大辞典』月星日)のようにいくつかあり、「鶯は月星日をやかぞへうた」の句(『犬子集』)や「あれは世間に重宝する三光とやらいふ鳥であらふ」という語句(『続狂言記』鶯)が知られている。
 三光を鳴く鳥としては、三光鳥やイカルが知られているが、それにも拘わらず、ウグイスを飼育して三光を鳴かせるという発想は何処から来るのであろうか?

 次号では、聞きなれないであろうが、極めて意義のあるウグイスの語源説について紹介する。


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