ウグイスの語源説考

 前々章の『古今和歌集』422の和歌をウグイスという名前の鳴き声語源説の根拠として考える説が成立しないことについて述べたのに続いて、前章では、最古の和歌集『万葉集』にもウグイスの鳴き声語源説の手掛かりが見つからなかったことについて述べた。本章では、ウグイスの古称といわれる「法吉鳥」という名前とウグイスの語源が誕生した時期について考察してみたい。

法吉郷の地名起源説話
 『広辞苑』に、法吉鳥(ほほきどり)はウグイスの古称とあり、その根拠として『出雲国風土記』の法吉郷の地名起源説話を挙げている。
 天平5年(733年)に完成した『出雲国風土記』の法吉郷の条には次のように記されている。

 法吉郷、郡家(ぐんが)の正西一十四里三百三十歩。
 神魂命(かむむすびのみこと)の御子、宇武賀比売命(うむかひめのみこと)、法吉鳥と化(な)りて飛び   度(わた)り、ここに静まり座(ま)しき 故(かれ)、法吉(ほほき)と云ふ。

 これは、出雲国嶋根郡(しまねのこおり)法吉郷(ほほきのさと、現在の松江市法吉(ほっき)町)の地名起源説話で、宇武賀比売命*)が法吉鳥となって飛び渡り鎮座したところ故、法吉という地名になった、と記されている。
 法吉鳥が鎮座したところには法吉(ほっき)神社(旧社)が建立され、祭神として宇武加比比売命*)が祀られた。この女神は蛤を神格化したものと考えられ、八十神の迫害にあった大国主命を蘇生させた神の一柱である。「生む・産むと考え、その神名を付けたのであろう(『古代出雲への旅』)、といわれる。
 その旧社地は宇久比須谷と呼ばれたことが江戸時代の享保2年(1717年)に完成した松江藩の地誌『雲陽誌』に記されている(法吉神社 – Wikipedia)。
 また、旧社地には、地名起源説話に由来して名付けられた伝宇牟加比売命(うむかひめのみこと)*)御陵古墳が存在する。この古墳は、六世紀前半のもの(伝宇牟加比売命御陵古墳 – 全国遺跡報告総覧 (nabunken.go.jp))、といわれる。

注*)宇武賀比売命には、宇牟加比売命(古墳名)、宇武加比比売命(法吉神社の祭神名)などの異名がある。

法吉鳥の名前の由来について
 白石静の『字訓』によると、法吉鳥の「法」は「宣(の)る」の名詞形で、「宣る」はもと神意を「告(の)る」意から、神の定めたおきて、といわれる。また『字統』によると、神事を「吉」というのがその古義という。これらのことから、法吉鳥は、「神事を告げる鳥または神事の時期を告げる鳥」、という解釈が成り立つ。
 また、法吉神社の神事を調べると、御種祭(2月21日)、宮籠祭(8月6日)、例祭 (10月21日)という神事がある(『神社名鑑』)。 
 『広辞苑』に、種祭(たなまつり)は「苗代に播種する日の祝い」、種畑(たなばた)祭とある。これが法吉神社の御種祭に相当するのであろう。水口祭(みなくちまつり)とも同義という。 『綜合日本民俗語彙』によると、水口祭は、稲作儀礼の一つで、種子籾(もみ)を苗代に播いたときに行われる祭。ミトマツリ、苗代祝い、種子播き祝いなどともいって家ごとに行う儀礼という。
 前述のことを踏まえて、法吉鳥について改めて考察すると、「稲の種籾を苗代に播く時期を告げる鳥」と解釈でき、農耕儀礼に由来する鳥であることがわかる。この鳥が信仰から離れたとき、後の春告鳥へと繋がって行くのであろう。その視点から、法吉鳥はウグイスの古称といえるであろう。

江戸時代に出羽国に存在した法吉鳥
 江戸時代後期の故実の考証学の専門家で、国学三大家の一人といわれる小山田与清(ともきよ)の随筆『松屋(まつのや)筆記』に次の一節がある。

 出雲風土記注に鶯をホヽキ鳥といへるも北国にてはウグヒスとは聞かずしてホヽキと鳴よしに聞なせる也今も出羽国にては鶯をホッキ鳥といへりとなん松屋筆記 第2 – 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
【出雲風土記注に、ウグヒスをホホキ鳥と云えるというのは、北国ではウグヒスの鳴き声を「ウグヒス」とは聞かずに**)、ウグヒスは「ホホキ」と鳴くので、そのように、すなわち「ほほき」と聞きなせるからである。出羽国では、江戸時代後期の当時でも、ウグヒスをホッキ鳥と云っていた、という。】

*) ウグヒスはウグイスの歴史的仮名遣い。
注**) 江戸時代後期の『雅語音声考』に、ウグヒスは「ウグヒス」と鳴く故に「ウグヒス」と聞かれ、すなわち聞きなされ、ウグヒスと名付けられた、と記されていることによる。

 法吉鳥の名前は、「ホホき」(長音記号を使うと「ホーホキ」)という鳴き声に由来していることがわかる。すなわち、法吉鳥という名前は鳴き声語源説に基づいているということである。
 また出羽国ではホッキ鳥と呼ばれていたことがわかる。これは出雲文化の伝搬と捉えることができ、古代に存在したといわれる日本海文化圏における交流によって伝搬されたものと考えられ、古くは出雲国で「ホッキ鳥」と呼ばれていたことが推定される。現在、島根県の法吉神社や法吉町は、「ほっき」と発音されていることもその証であろう。
 江戸時代には、日本語名はウグヒスで統一されていたと考えられるが、出羽国には「ホッキ鳥」という古い名前が残っていた。そのことからも、法吉鳥はウグイスの古称といえるであろう。

 法吉鳥がウグイスの古称であるということは、ウグイスという日本語名は法吉鳥よりも後に誕生し、法吉鳥という名前の代わりに使用されるようになったと考えられる。
 ウグヒスはウグイスの歴史的仮名遣いなので、ウグヒスという日本語名はいつ頃誕生したのであろうか。

 『古事記』や『日本書紀』、いわゆる記紀にはウグヒスについての記載はないといわれている。 
 平安時代の百科事典『倭名類聚抄』に、「陸詞切韻云鸎、{烏莖反、楊氏漢語抄云、春鳥子、宇久比須}、春鳥也」、と記されている(倭名類聚鈔 20巻 [9] – 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp))。
 意訳すると次のようになるであろう。【陸詞の『切韻』に、鸎(おう)について春鳥と云う。『楊氏漢語抄』では、春鳥子は宇久比須(うぐひす)と云う】。陸詞は名を詞、字(あざな)を法言といい、中国・隋代の音韻学者(陸法言 – Wikipedia)。
 鸎は鶯の異体字で、宇久比須はウグヒスの万葉仮名。『楊氏漢語抄』では、ウグヒスに春鳥子という漢字を当てており、鸎との関係については特にふれていない。これは、ウグヒスと鸎は異なる鳥という認識が根底にあったからであろう。
 鸎や鶯という漢字は中国伝来のもので、江戸時代、貝原益軒は、中国における美声の鳥(コウライウグイス)の名前で、日本のウグヒスの名前ではないと云っている(『日本釈名』報春鳥)。その観点から、『楊氏漢語抄』では、鸎や鶯をウグイスに当てずに「春鳥子」という漢字を新たに作って当てたと推察される。
 『楊氏漢語抄』について、記録にみえる最初の辞書は,天武天皇11年(682)の成立という44巻であるが、現存せず、内容は未詳とされている。8世紀(奈良時代)の成立という『楊氏漢語抄』などは逸文が知られている(『世界大百科事典』)。ということから、早ければ天武天皇11年頃、遅くても奈良時代に、鸎や鶯の漢字が当てられる鳥はウグヒスではないと考える人がいたことがわかる。
 しかし、倭名類聚抄の著者の源順(みなもとのしたごう)は、鸎や鶯を「春鳥子はウグヒス」という『楊氏漢語抄』の考え方と結びつけていることから、鸎や鶯はウグヒスと捉えていたこともわかる。源順は、平安時代中期の貴族・歌人・学者で、承平年間(930年代半ば)に20歳代で倭名類聚抄を編纂しており、才人として知られていたようである(源順 – Wikipedia)。

 奈良時代の天平勝宝3年(751年)に、日本で最初の漢詩集として『懐風藻(かいふうそう)』が編纂されている。作風は中国大陸、六朝詩の影響が大きいが初唐の影響も見え始め、古代日本で漢詩が作られ始めるのは、大陸文化に連なろうとする律令国家への歩みが反映されている(懐風藻 – Wikipedia)、といわていれる。

 『懐風藻』には、116の漢詩が記載されているが、そのうち、6編に鶯が詠まれており、2編の題名に鶯の字が見られる。
 詩番号8は、詩僧釈智蔵(しゃくちぞう)のもの。詩題は「花鶯を翫ぶで」、漢詩文中に「求友鶯嫣樹」と詠われている。この中の「友鶯」は、『詩経』小雅・伐木篇の漢詩に見られ、「朋友故旧と酒宴などを楽しむこと」を示す比喩表現であるが、「鶯嫣樹」と詠っているので、鶯が木の上で鳴いている姿を想定している。
 詩番号10は、天智天皇の孫で大友皇子の長子である葛野王(かどののおおきみ)のもの。詩題は「春日、鶯梅を翫ぶ」で、「嬌鶯、嬌聲を弄す」と、鶯について詠っている。この詩は「梅に鶯」のたとえが詠まれた日本で最初の作品といわれる。中国伝来の「梅に鶯」の漢詩に倣って詠まれたものと思われるが、奈良の佐保山にはウグヒスがいたと推定されるのでそれを脳裏に描きながら詠まれた可能性は否定できない。また、葛野王の卒去は慶雲2年(706年)であり(葛野王 – Wikipedia)、楊氏漢語抄の初版本が不詳のため、ウグヒスという日本語名を存じていたかは不明である。
 他の3つの漢詩には、「鶯弄添談論」、「吹臺弄鶯始」、「鶯吟鶯谷新」などの詩句が見られ、前述の2つの漢詩も含めて鶯について詠った『懐風藻』の漢詩はすべて美声を詠ったもので、鶯は美声の鳥という認識があったと考えられる。
 そういう認識の状況で、『万葉集』の和歌は詠まれているので、美声の鳥を示す日本語名が必要になってくることは推察される。

 最古の和歌集『万葉集』には、ウグヒスについて、漢字では鶯、鴬、鸎、春鳥、宇久比須などの表記が見られる。万葉の歌人の中にも、鶯、鴬、鸎の漢字を用いることを避ける人がいたことがわかる。宇久比須などの万葉仮名の表記も見られ、ウグヒスという日本語名が存在していたことがわかる。

 『万葉集』は、和歌を作った時期により4期に分けられる(万葉集 – Wikipedia)。
 第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。
 第2期は、平城京遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)である。ほかには天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。
 第3期は、733年(天平5年)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良、伝説の中に本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした大伴坂上郎女などである。
 第4期は、759年(天平宝字3年)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)・湯原王などである。

 第1期には、ウグヒスについての和歌は見られない。第2期における最古の和歌は、柿本人麻呂の次の2首である。

   春山の友鴬の鳴き別れ
      帰ります間も思ほせ我れを
  柿本人麻呂(『万葉集』10-1890)
      (春山 友鴬 鳴別 眷益間 思御吾)
 【春山のウグヒスが仲間同士で鳴きながら別れていくように別れなくてはなりませんが、そのお帰りの道すがらも思っていて下さい、私のことを】

   春山の霧に惑へる鴬も
      我れにまさりて物思はめやも
 柿本人麻呂(『万葉集』10-1892)
      (春山 霧惑在 鴬 我益 物念哉)
 【春山にかかった霧にウグヒスは迷うであろうけれども、私ほど深い物思いをするであろうか。しないでしょう】

 これらの和歌の詠まれた年代は不明である。また、人麻呂の消息も不明といわれる。晩年は草薙皇子の舎人として使え、皇子の崩御(持統天皇3年(689年))により石見の鴨山に行ったといわれるが、死没の年齢は不明とされる。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都(710年)以前には死去したものとされる(柿本人麻呂 – Wikipedia)。
 また、臨終の作〈鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあらむ〉(巻二)の題詞から,人麻呂は石見で世を去り,歌の配列された位置により死期は709~710年(和銅2~3)とみられること,などが推定されている(『世界大百科事典』柿本人麻呂)。
 従って、前述の和歌が詠まれた時期は平城京遷都以前で、ウグヒスという日本語名はそのころまでに誕生していたことがわかる。前述のように、逸文の残っている8世紀に成立した『楊氏漢語抄』より以前にウグヒスという日本語名は存在していたものと考えられる。


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