3.『万葉集』とウグイスの鳴き声語源説について
前章では、『古今和歌集』422の和歌をウグイスという名前の鳴き声語源説の根拠として考える説について問題を指摘し、ウグイスの鳴き声語源説が成立しないことについて述べた。そこで、同様に日本最古の和歌集『万葉集』について、ウグイスの聞きなしが存在するのか、また、憂いに関する表現としてどのようなものがあるのかについて検証する。
§ウグヒスの聞きなし
『万葉集』では、ウグイス(歴史的仮名遣いはウグヒス)について詠まれた和歌は49首ある。これは、動物ではホトトギス,カリに次いで多い。しかし、ウグイスの鳴き声についての表現、すなわち聞きなしは見られない。『万葉集』でも、ホトトギスについては、次の和歌のように聞きなしが存在するので、鳴き声を聞きなすということが行われていなかったということではない。
暁に名告り鳴くなる霍公鳥(ほととぎす)
いやめづらしく思ほゆるかも (大伴家持『万葉集』18-4084)
因みに、「ウグイスが鳴く/鳴き」という表現は21首、「ウグイスの声」という表現は7首ある。そのうち、「ウグイスの声」とは詠われていても、次の和歌に見られるように、鳴き声についての表現ではない。うぐいすの鳴き声を聞きなすには至っていない。
春鶯を詠む歌
あしひきの山谷越えて野づかさの
今は鳴くらむ鶯の声 (山部赤人『万葉集』17-3915)
【もう春だから、ウグイスは山谷を越えて野辺の小高い丘の上で今は鳴いているであろう】
§万葉集』における憂いに関する和歌
『万葉集』においては、『古今和歌集』に見られるように、「憂い」、「ウグイス」、「鳴く」または「鳴き声」の3要素の特徴をもつ和歌は見られない。そこで、「憂い」、「ウグイス」の2要素に絞って該当する和歌を調べる。
(1)春山の霧に惑へる鶯も
我れにまさりて物思はめやも 柿本人麻呂(『万葉集』10-1892)
【春山の霧にはウグイスも戸惑い悩むであろうが、私があなたのことを思うより以上に物思いをしているであろうか。いやそのようなことはないだろう。】
(2) 鶯の通ふ垣根の卯の花の
憂きことあれや君が来まさぬ (『万葉集』10-1988)
【ウグイスが垣根の卯の花に通うように、通ってくるあなたがおいでにならない。何か憂きことがあったのでしょうか。卯と憂が掛詞になっている。】
前述の和歌に関する特徴を抽出すると次のようになる。
- 『万葉集』においては、『古今和歌集』の4倍以上の和歌が収録されているにもかかわらず、「憂い」に関して、「物思う」「憂きこと」の2種類の表現が見られるだけで、『古今和歌集』と比較すると、「憂い」の和歌の数も少なく表現の多様性も乏しい。
- 和歌の構成は、「憂い」、「ウグイス」の2要素の組み合わせで、「鳴く」あるいは「鳴き声」という要素を加えたものは見られない。
次の和歌は山上憶良の有名な貧窮問答歌である。憂いは見られるが、2要素の組み合わせではない。
世の中を憂し(うし)と恥し(やさし)と思えども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば 山上憶良(『万葉集』5-893)
【世の中を辛いものだとも恥ずかしいものだとも思うけれど、飛び立って逃げることもできない。鳥ではないのだから。】
そして、気になるもう一首は次の和歌。
春の野に霞たなびきうら悲し
この夕かげに鶯鳴くも 大伴家持(『万葉集』19-4290)
【春の野は霞に覆われ春めいてはいるが、何となく悲しくなる。そういう夕影の中でウグイスが鳴いている。】
この和歌は、家持の春愁3首のうちのひとつといわれている。「うら悲し」を春愁と見なせば、「憂い」、「うぐひす」、「鳴く」の3要素の組み合わせの和歌である。しかし、鳴くとはいっても何と鳴いていたのかを示すウグイスの聞きなし声ではない。
『万葉集』においては、次の和歌のように、美声で鳴く鳥を愛でる傾向は強いものの、そこに留まっていて、ウグヒスの聞きなしの段階に達していないものと思われる。
鶯の声は過ぎぬと思へども
しみにし心なほ恋ひにけり (『万葉集』20-4445)
このように、古くから美声を人に愛でられてきたウグイスという鳥は如何にして命名されたのであろうか!