ウグイスの語源説考

 現在、定説となっているウグイスの鳴き声語源説は、『古今和歌集』の「うくひずと鳥の鳴くらん」という和歌を根拠にしていることが『雅語音声考』に記されていることについて1章で述べた。従って、その和歌について考察する必要があるがその前に、その和歌が記載されている『古今和歌集』について簡単に紹介する。

『古今和歌集』とは

 『古今和歌集』は、勅命により国家の事業として和歌集を編纂するという伝統を確立した作品であり、八代集・二十一代集の第一に数えられる。平安時代中期以降の国風文化確立にも大きく寄与し、『枕草子』には、『古今和歌集』を暗唱することが当時の貴族にとって教養とみなされたことが記されている。
 収められた和歌のほかにも、序文の仮名序は後世に大きな影響を与えた歌論として文学的に重要である。藤原俊成はその著書『古来風躰抄(こらいふうたいしょう)』に、「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べている。これは『古今和歌集』が歌を詠む際の基準とすべきものであるということであり、その風潮は明治に至っても続いた(『ウィキペディア』古今和歌集)、といわれる。
 ウグイスについても、「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、いづれか歌をよまざりける」、と仮名序に記され、歌詠み鳥の異名が生まれ、また雅な鳥とされるようになる。

 しかし、明治21年(1888)、正岡子規が『再び歌よみに与ふる書』の中で、「貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集にて有之候」と述べて以降、『古今和歌集』の評価は著しく下がった。
 その背景には、当時『古今和歌集』の歌風の流れを汲む桂園派への批判もあったといわれるが、『古今和歌集』は重要視されることがなくなり、そのかわりに『万葉集』の和歌が雄大素朴であるとして高く評価されるようになった。
 『万葉集』を尊び『古今和歌集』はそれよりも劣ったものとする前代からの風潮は、現在も大勢として変わってはいない(『ウィキペディア』古今和歌集)、といわれている。

「うくひずと鳥の鳴くらむ」という和歌についての考察

 この和歌は『古今和歌集』の物名歌という括りの冒頭に記されている和歌である。詳細は下記の通りであり、「うぐひす」という題が付けられている。

    心から花の雫(しずく)にそほぢつつ
       憂く干ずとのみ鳥の鳴くらむ
 藤原敏行(『古今和歌集』422)

 「自分から花の雫にぐっしょり濡れているのに、どうして、「憂きことがなくならない」とばかり鳴いているのだろう、この鳥は」と詠われている(『古今和歌集全評釈』)、という。
 しかし、この和歌は前述のように物名歌である。物名歌とは、物の名を歌の意味に関係なく詠みこんだ和歌で、隠題(かくしだい)、「もののなのうた」とも呼ばれる(『広辞苑第6版』)。題名が「うぐひす」なので、この和歌には「うぐひす(うぐいすの古名)」という名前が詠み込まれていることを示している。
 和歌の中の語句「憂く干ず」は、「憂きことがなくならない」ことを意味する言葉である(『古今和歌集全評釈』)。「憂く干ず」をかな読みすると「うくひず」であり、濁点に拘泥しないと「うぐひす」と展開される。すなわち、この和歌の中に、題名で示されている「うぐひす」という鳥の名前が詠み込まれていることがわかる。
 しかも、「うぐひすとのみ鳥の鳴くらむ」とも詠めるので、和歌の中の「うぐひす」は鳴き声であり、ウグヒスは自分の名前だけを鳴いている、あるいは聞きなしているとも解釈できる。
 このように、物名歌は、題名で示された物の名前を和歌の中から探し当てるもので一種の言葉遊びといわれている。

和歌422の鳴き声語源説の根拠としての問題

 この和歌は物名歌であるので、ウグヒスという物名があらかじめ存在し、鳴き声として詠み込まれたものである。すなわち、名前の聞きなしである。一方、鳴き声語源説は鳴き声から名前をつけるので方法論において逆の発想であり矛盾する。これがウグイスの鳴き声語源説の問題である。従って、ウグイスの鳴き声語源説はその拠り所を失い成立しないことになる。この問題は基本的な問題であるが、今までに指摘されたことはないと思われる。

 「ウグイス」を聞きなしとする和歌は、前述の和歌を含めて3首が知られている。残りの2首のうちの1首は、『古今和歌集』の和歌798で、前述の和歌422と同じく「憂く干ず」と聞きなしている。詳細については後述する。もう1首は、平安時代後期に詠まれた次の和歌である。

    いかなれば春来るからにうぐひすの
         おのれが名をば人に告ぐらん (美作守匡房『承歴二年内裏歌合』)

 これらの三首の和歌はいずれも平安時代に詠まれたもので、「うぐひす」と聞きなす和歌や俳句が他の時代には存在しないことは鳴き声語源説の根拠を薄弱にしていると思われる。

 ところで、どうしてこのような「憂い」の和歌が詠まれたのであろうか?

和歌としての特徴

 前述の『古今和歌集』422の和歌について、構成上の特徴を見ると、ウグイスの鳴き声に「憂い」を絡ませた比喩表現が用いられている。「憂い」から導かれる「憂く」が「ウグイス」の掛詞になっていることが関係していると思われる。それとともに、「うぐひす」という名前とその名前の聞きなしが含まれている。
 『古今和歌集』には、前述の名前の聞きなしの代わりに単に「鳴く」と表現した和歌も見られる。そのような構成上の特徴をもつ和歌が『古今和歌集』には数例ある。それらを列挙し具体的に概要を調べ、それらの和歌が何故詠まれれたのかについて考えてみたい。なお、和歌の解釈は『古今和歌集全評釈』を基本としている。

(1) 憂き節ごとにうぐひすぞ鳴く

   世にふれば言の葉繁(しげ)き呉竹(くれたけ)の
        うきふしごとに鶯ぞ鳴く
 (『古今和歌集』958)

 「憂き節」はつらいこと、悲しいことで、竹の節にかけて用いる。そのような竹藪に、ウグイスは巣を作り棲息する。
 憂き世は辛く、その節々で人は泣く。「ウグイスが竹の節で鳴く」という和歌のウグイスも、ウグイス自体を詠っているのではなく人の隠喩である。「人が憂き節で泣く」と連想され、憂き世の節々で泣くことと関係付けられる。また、「鳴く」は「泣く」の掛詞でもある。類似の和歌として、次のものがある。

   今さらになに生(お)ひ出(い)づらん竹の子の
       うきふししげき世とは知らずや
 凡河内射恒(『古今和歌集』957)

(2) 世を憂く干ずと鳴きわびむ

   われのみや世を憂く干ずと鳴きわびむ
          人の心の花とちりなば
 よみ人しらず(『古今和歌集』798)

 この歌は恋愛歌であり、『小町集』に載っているので小野小町の作といわれている。あの人の心が、花が散るように散ってしまったら、世の中は憂く干ず(憂いがなくならない)とばかりに私は泣き侘しがるのでしょう、といっているのだという。

(3) 物憂かる音にうぐひすぞなく

   春たてど花もにほはぬ山ざとは
       物うかるねにうぐひすぞなく
 在原棟梁(『古今和歌集』15)

 「寛平御時(かんぴょうのおんとき)きさいの宮の歌合のうた」の詞書のある和歌である。立春が来ても花も咲かない、雪ばかりの山里では、ウグイスは物憂い声でしか鳴けないのであろう。山里は、次の和歌のように、憂きことのない住みやすい郷ではあるが、やはり花が必要なのであろうか。

   山里はものの寂しき事こそあれ
       世の憂きよりは住みよかりけり
 (『古今和歌集』944】)

(4) うぐひすも果ては物憂くなりぬ

   鳴きとむる花しなければ鶯も
        果ては物憂くなりぬべらなり
  紀貫之(『古今和歌集』128)

 鳴き声を受け止めてくれる花がなければ、ウグイスもついには物憂くなってしまうのであろう。

 『古今和歌集』の「憂い」の表現については、「憂き節」「世を憂く」「憂く干ず」「物憂かる音」「もの憂くなりぬ」の5つのパターンが見られる。


 ところで、「憂い」、「うぐひす」、「鳴く」または聞きなしなどの構成上の特徴は何処から来たものであろうか。

漢詩「上陽白髪人」とその受容

 前述の構成上の特徴は、白居易の漢詩「上陽白髪人」の一節「宮鶯百囀すれども愁いで聞くを厭う(宮鸎百囀愁厭聞)」に見られ、「愁い」、「宮鶯(きゅうおう、宮殿にいるウグイス)」、「百囀(ひゃくてん、百囀り―――頻りに鳴くこと)」の3つが揃っている。

 唐の玄宗皇帝が天下の美女を選び集めるために全国に派遣した使者は花鳥使または花鳥の使いと呼ばれた(『日本国語大辞典』)。漢詩「上陽白髪人」とは、「一人の少女が玄宗皇帝の末年に初めて選ばれ長安の都に入ったのは16歳のとき。顔は芙蓉に、胸は玉に似たる容貌は、すぐに楊貴妃の目に留まり妬まれて洛陽の離宮、上陽宮に移され軟禁される。それ以来、幾星霜が過ぎたのであろうか、今は60歳。紅顔の美少女は老い、頭は白髪になってしまった(白居易3ー59ー93 | 覚書き (ameblo.jp))」、というものである。

 「宮鶯百囀すれども愁いで聞くを厭う」とは、離宮の宮女たちは、頻りに誘いに来るが、愁いに満ちている身にとってはそれさえ聞く気になれない、そのような心境なのであろう。離宮の宮女たちが誘いに来るさまを宮鶯が百囀するさまに喩えている。

 この漢詩は新楽府(しんがふ)と呼ばれる。唐代に新しくできた詩で、「上陽白髪人」などの新楽府は、民衆の生活苦などを描き、詩によって為政者への諷諫(ふうかん、遠回しにいさめること)を目的とした詩である(白氏文集 – Wikipedia)、といわれる。新楽府は諷諭詩の一種である。

 『白氏文集』は、日本には平安時代の承和(じょうわ)年間(834~-848)以降に伝来し、70巻本が平安貴族の間で流行した。具平(ともひら)親王がその詩の自注に「我が朝の詞人才子、白氏文集を以て規範と為す。故に承和以来、詩を言う者、皆な体裁を失わず」と記されたように、王朝漢詩を一変させた。とりわけ諷諭詩・新楽府50篇は、藤原行成が書写し一条天皇に献上するなど特に重んじられ、『源氏物語』『枕草子』などにも大きな影響を与えたといわれる(白氏文集 – Wikipedia)。
 前述の構成上の特徴が、「上陽白髪人」の一節に類似しているのも、その影響を受け和歌に取り込まれたものと推察される。
 しかし、鳴き声語源説の根拠となった『古今和歌集』422の和歌の憂いの内容については、漢詩「上陽白髪人」ほどの事態の重大性を感じられないのは、言葉遊びに過ぎなかったからであろう。


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