小石川鶯谷考

4. 太田南畝の漢詩を通じての再考

 太田南畝は、天明期(1781~1789)を代表する文人・狂歌師であり、三大狂歌師ともいわれる。多くの異名をもつが、なかでも蜀山人が最もよく知られている。太田家は代々幕府の御徒組の御家人であったが、寛政6年(1794)、幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下では首席で合格し、寛政8年(1796)、支配勘定役に就いた官僚でもあったこと(『ウィキペディア』太田南畝)はあまり知られていない。
 なお、小栗上野介の父方の祖父中川飛騨守忠英は、学問吟味で合格した南畝などを人材登用した人(『朝日日本歴史人物事典』中川忠英)、といわれる。
 南畝は、漢詩の嗜みもあり『太田南畝全集』などに残されている。また、Webサイト(『浮世絵文献資料館』)の「太田南畝.遷喬楼」のページには、金剛寺坂の南畝の住居「遷喬楼」に関する漢詩が集められ、記載されている。
 これらの漢詩を見ると、小石川鶯谷について荷風とは異なる知見が窺える。それらをもとにして、鶯谷や遷喬楼の位置を始め、その他についても改めて考えてみたい。

(1)遷喬楼の居住期間について

 下記の漢詩①、②から、文化元年甲子(きのえね)春(文化元年(1804)1月)から9春秋、すなわち文化9年(1812)までの間住んでいた、と推定される。その後、駿河台淡路坂に新居を築き移住している。『「蜀山人」大田南畝と江戸のまち』には、文化元年(1804)~同6年(1809)という記載もあるが、本稿では、漢詩の記載から文化元年~文化9年説をとることにする。

① 「春日、居を鶯谷に移す」   (『太田南畝全集4』)
  文化元年甲子春 移居慧日寺東隣
  雪残大獄西窓外 気暖陽溝上水浜
  竹裏鐘鳴知午飯 門前市近少囂塵
   正逢黄鳥遷喬木 幽谷風光事々新
 
② 「鶯谷の遷喬楼の壁に題す」  (『太田南畝全集5』)
  寄居鶯谷九春秋 毎憶牛門竹馬遊
  更向駿台新卜築 回看鶯谷似并州
 

(2)遷喬楼に移住した理由について

 移住理由については、「鶯谷十詠」の漢詩の序文に「余の家、世々歩兵に籍あり。而して牛門歩兵巷に居る者幾んど百年。余の度支府(たくしふ。主計寮(かずえりょう)の唐名で財政を司る役所(『日本国語大辞典』))の吏に遷るに及んで、未だ賜地有らず、猶の歩兵巷(ほへいちまた。御徒組の人たちが生活する場所(『ディジタル大辞泉』))に寓する者八年。文化紀元甲子の春、某氏の築くところの旧居を小陽村【小陽、此れ小日向を云ふ】に得たり」(『太田南畝全集4』)、と記されていることから窺い知ることができる。
 学問吟味に首席で合格し支配勘定役についてはみたが土地の拝領さえあらず、元の御徒組の地、牛門歩兵巷に8年も住んでいた。ところが、文化元年1月に某氏が築造した旧居を取得できたので移住した、というのがその理由である。
 なお、『「蜀山人」大田南畝と江戸のまち』によると、牛門歩兵巷は牛込仲御徒町、また小陽村は小日向金剛寺坂上に対応すると推定される。

(3)遷喬楼からの景観と鶯谷の位置について

 遷喬楼からの景観については、「鶯谷十詠」の漢詩の序文に「地、慧日山金剛寺の東に属す。前に金剛寺坂有り。後に鴬谷有り。西南懸敞、西のかた芙蓉峰を見る。秩父玉笥、連山波の如し。窓前に碧瓦の雲を凌ぐ者を、金剛寺と為す。南に城楼を揖め、皓壁迢逓たり。赤城右に在り、築士左に在り。煙樹人家、其の間に点綴す。北は一丘に倚り、竹樹朦籠たり。東は則ち鬨市。是れ其の大略なり」 (『太田南畝全集4』)とある。

『江戸切絵図』東都小石川絵図
『江戸切絵図』東都小石川絵図
国立国会図書館 デジタルコレクション所蔵

 これを詳細に眺めると次のようになる。

  1. まず、「地、慧日山金剛寺の東に属す」ということから、遷喬楼は金剛寺の東にあったことがわかる。
  2. 「前に金剛寺坂有り」ということから、遷喬楼の前、すなわち東に金剛寺坂があり、遷喬楼は東向きに建っていたことが分かる。金剛寺坂に面しかつ東向きの家を東都小石川絵図で探すと一軒だけ見つかる。横伏せL字状の武家屋敷の並びの東端の屋敷のうち南側の武家屋敷であり、若林栄助と記されている。
     しかし、この絵図は嘉永(1848~1855)年間のものであり、文化元年(1804)からは50年ほど経っているので異なるかもしれない。
  3. 「後に鶯谷有り」といっているので、遷喬楼のすぐ後(西)に鶯谷があったことが分かる。前述の大窪詩仏『詩聖堂詩集』巻の十の「雪後鶯谷小集得庚韻」と題する記事の中に「遷喬楼は懸崖の上に在り」と記されており、また別の漢詩で幽谷と表現しているものがあるので、比喩だとしても鶯谷は深い窪地であったことが推定される。
     鶯谷は遷喬楼の後にあり、金剛寺の東にあったことが推定される。すなわち、金剛寺、鶯谷、遷喬楼、金剛寺坂の順に西から東に向かって並んでいたことが推定されるのである。これは、荷風の知見とは異なる。
  4. 「西南懸敞」とある。「敞」は「たかい、そのように整えたところ」の意(『字通』)とあるので、遷喬楼は高く見晴らしがよかったのであろう。西南は西と南と解釈する。前述のように、大窪詩仏は「遷喬楼は懸崖の上に在り」といっていることから推定しても西南には高い崖があったと思われる。
     また、「遷喬」は、その出典でもある『詩経』の小雅・伐木篇の漢詩の一節「幽谷を出でて 喬木に遷る」から考えても、高い所にあったことは明らかであろう。
  5. 「西のかた芙蓉峰を見る」とあることから、遷喬楼の裏、すなわち西に富士山を遠望できたことがわかる。遷喬楼の西には、その景観を遮る金剛寺の本堂は位置せず、その南側の境内が位置していたのであろう。
     このことから、遷喬楼は2で仮定した若林栄助屋敷ではなく、より南の小日向金剛寺門前町の中の一角にあったということが考えられる。
     『江戸名所図会』で見ると、金剛寺の境内の東側には、窪地があり町屋が見えるので、遷喬楼も鶯谷もそのあたりにあったと思われる。4から、遷喬楼の西南は懸敞とあることから、『永井荷風の東京空間』で指摘するところの2番目の崖上に存在し、かつ地下鉄丸ノ内線の北にあったと考えられる。高く見晴らしがよいという要件にも合致する。
  6. 「窓前に碧瓦の雲を凌ぐ者を、金剛寺と為す」とあるので、遷喬楼の西の窓から金剛寺の本堂の碧瓦が見えたのであろう。本堂からあまり離れていない東南あたりに、かつ鶯谷を挟んで遷喬楼が建っていたと考えられる。
  7. 「南には城楼が見える」とあるが、配置から将軍のいる江戸城であろう。
  8. 「北は一丘に倚り、竹樹朦籠たり」とあるので、北には丘があり竹や樹木が鬱蒼としていたのであろう。また、この丘は、『永井荷風の東京空間』の3番目の崖に対応するのであろう。そして、金剛寺坂もそのあたりで急坂であったことが推定される。  

 これによって、遷喬楼の四囲の状況が明らかになった。北に丘、すなわち崖があり、東に金剛寺坂が面し、南や西には崖がある。それ故に、遷喬楼は『永井荷風の東京空間』のいう2番目の崖上に存在していたことが推定される。地下鉄丸ノ内線の北側で金剛寺坂と交差するあたりである。
 そして、鶯谷も遷喬楼の西、金剛寺の境内の東側の窪地で、2番目の崖上という位置が推定される。また、丸ノ内線の北側である。

 以上について、要約すると次表になる。

No遷喬楼からの方向見えるもの備      考
1 西金剛寺   遷喬楼は金剛寺の東とある。
2前(東)金剛寺坂遷喬楼の前に金剛寺坂。
3後(西)鶯谷鶯谷は遷喬楼の後にあり、金剛寺の東にあったことが推定される。これは、荷風の知見とは異なる。
4西芙蓉峰
(富士山)
西には本堂ではなく金剛寺の境内が位置していたのであろう。
5西懸敞(崖)大窪詩仏『詩聖堂詩集』の「遷喬楼は懸崖の上に在り」を彷彿とさせ、遷喬楼は『永井荷風の東京空間』の指摘する2番目の崖上にあったと思われる
6窓前金剛寺の本堂の碧瓦本堂は西北の方向であろう
7懸敞(南に崖)5に同じ
8城楼江戸城であろう
9丘があり、竹樹朦朧北側が高くなっている、すなわち、急坂を示している。この丘は『永井荷風の東京空間』の指摘する 3番目の崖と考えられる。
遷喬楼からの景観

(4)「遷喬楼」という名前について

 「文化甲子春日、居を鶯谷に移す。楼に名づけて遷喬と曰ひ」(『太田南畝全集4』)、と漢詩に詠まれているように、鶯谷に住むことになったので名付けたというが、より正確には、鶯谷に住むことになったので『四書五経』の一つ『詩経』小雅・伐木篇の漢詩の詩句「幽谷を出でて喬木に遷る」によって名付けたというべきである。
 「遷喬」とは、「鶯が谷から出て喬木に遷り住むこと。転じて、高い地位に昇進したり、よい方向に転じたりすることのたとえ」(『日本国語大辞典』)、である。類似の言葉として、「喬遷」,「鶯遷」,「遷鶯」があり、初唐にはこれらの言葉は定着していたといわれる(渡辺秀夫『詩歌の森』)。それらのうち、鶯遷は晩唐の李綽(りしゃく)が著した『尚書故実』に「鶯遷の故事」が記されていることからも知られている。
 鶯遷の故事とは、科挙の試験問題として鶯遷の漢詩が出題されたが、出典の『詩経』小雅・伐木篇の漢詩には「鳥とはあるが鶯とはない。誤りではないか」と国家試験での出題を疑問視した故事である。それほどに伐木篇の鳥が鶯であることが忘れ去られていることを示す故事とも考えられる。なお、この「鶯遷の故事」の疑問がほぼ解消されるのは清の時代になってからである(『説文解字注』)。
 「鶯遷」について、『広辞苑』には、「鶯がくらい谷間を出て高い木に移ること。転じて、進士の試験に及第する意。昇進・転居などした人を祝うことばとして用いる」、と記されている。

 特に「鶯遷」の意味から遷喬楼の命名について推定すると次のようになる。

  1. 遷喬楼の西南は懸敞であり見晴らしがよかったと想定され、大窪詩仏も『詩聖堂詩集』の「遷喬楼は懸崖の上に在り」といっていることから、遷喬楼は崖上などの高い所に位置していたと考えられる。小生は『永井荷風の東京空間』の2番目の崖上で、地下鉄丸ノ内線の北側と推定している。また、『「蜀山人」大田南畝と江戸のまち』では、遷喬楼は2階建といっている。
     以上のことから、「遷喬」の原義「鶯が谷から出て喬木に遷り住むこと」にならって鶯谷から見て高い所にあることを意図していたと考えられる。
  2. 御徒組の居住地である牛門歩兵巷(牛込仲御徒町)より「転居」をしているので、よい所に転居したという意味も含まれるのであろう。
  3. 前述のように、太田家は代々幕府の御徒組の御家人であったが、寛政6年(1794)、幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下では首席で合格し、寛政8年(1796)に支配勘定役に就いていることから、鶯遷の「進士の試験に及第する」や「昇進」の意に従って名付けたとも考えられる。

 すなわち、遷喬楼の命名には、「鶯遷」という言葉のすべての意味が含まれていたと考えてよいであろう。


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