時候
10月 菊
個人会員 奥谷 出
菊は日本の秋を象徴する花といわれる。
タンポポなどの野菊は別にして、薬草・観賞用の菊は中国から渡来したものであり、『万葉集』の和歌には菊の花は登場しない。菊を詠った最初の和歌は、桓武天皇の次の和歌といわれ、奈良時代末から平安時代初期には渡来していたと推定されている(『ウィキペディア』キク)。
この頃の 時雨の雨に 菊の花 散りぞしぬべく あたらその香を (桓武天皇 『日本後記』、『類聚国史)』) [この頃の時雨の雨に、菊の花は散ってしまいそうだ。惜しいことに、芳しい香りも消えてしまいそうだ。]
菊の香とは別に白菊の花の神聖な美しさを優雅に詠った和歌もある。
心あてに折らばや折らむ初霜の 置き惑わせる白菊の花 (凡河内躬恒『古今和歌集』) 【折るならば当てずっぽうにだが折ってみようか、初霜が降りて、霜なのか白菊なのか、見紛いそうな白菊の花を】
正岡子規は、『歌よみに与ふる書』の中で、『古今和歌集』批判の一環として、この和歌について、「百人一首にあれば誰も口ずさむが、一文半文の値打ちない駄歌、嘘の趣向なり」と批判している。
菊の語源
日本にはタンポポなど多くの野菊が自生するが、家菊・栽培菊はなかった。『万葉集』には157種の植物が登場するが、菊を詠んだ歌は一首もなく、飛鳥時代・奈良時代の日本に菊がなかったことを暗示している。中国から奈良時代末か平安時代初めに導入されたと推定される。平安時代に入り、『古今和歌集』あたりから盛んに和歌にも詠まれるようになった(『ウィキペディア』キク)。
菊は、漢音が語源となっており、訓読みは存在しない(Webサイト『語源由来辞典』)。中国から渡来したとき、「kuku」と呼ばれ、転化して「きく」と呼ばれるようになったという説がある。
菊理媛神、又は菊理媛命は、日本の神、加賀国の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされるようであるが、ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコトと発音されるようである(『ウィキペディア』菊理媛神)。
平安時代の百科事典『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』には、菊の和名表記として、「加波良與毛木」(カワラヨモギ=河原蓬)が記されている。
菊と延寿
紀貫之に、「世の中のはかなきことを思ひけるをりに、菊の花を見てよみける」という詞書をもつ和歌がある。
秋の菊にほふ限りはかざしてむ 花よりさきと知らぬ我が身を(紀貫之 『古今和歌集』)
和歌の中の「かざす【挿頭す】」とは、「花・枝を髪または冠にさす」ということ(『広辞苑』)であり、花・枝を髪に挿すことにより延年の霊験があるとする、いわゆる延寿思想と結びついている、といわれる。また、この和歌から、和歌の世界でかざされる植物として、菊が定着したとされる。
菊酒(きくざけ)とは、重陽(ちょうよう)の節句(陰暦9月9日)に飲む、菊の花を浸した酒。厄除けや不老長寿を願って飲むならわしがあった。また、加賀(石川県の旧国名)でつくられた名酒(講談社『飲み物がわかる辞典』)。
菊はなぜ皇室の紋章か
鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに32弁の八重菊紋である十六葉八重表菊が皇室の紋として定着した(『ウィキペディア』菊花紋章)、といわれる。
「菊紋」が皇室の家紋とされた頃から、菊は日本の秋を象徴する花となったようである(『ウィキペディア』キク)。
江戸時代の菊の栽培
栽培が一気に展開したのは江戸時代から、特に元禄期(1688~1704年)以降である。正徳頃(1711~1716年)からは「菊合わせ」と呼ばれる新花の品評がしばしば行われた。江戸、伊勢、京都、熊本などでそれぞれ独自の品種群、系統が生じた。「三段仕立て」などの仕立ての様式やその丹精の仕方なども発達し、菊花壇、菊人形など様々に仕立てられた菊が観賞された(『ウィキペディア』キク)。
これらは江戸時代から明治、大正時代にかけて日本独自の発展をした古典園芸植物の1つとして、現在では「古典菊」と呼ばれている。全般に花型の変化が極めて顕著であるのが特徴で、その中でも「江戸菊」は咲き初めから咲き終りまでの間に、花弁が様々に動いて形を変化していく様を観賞する。このように発展した日本の菊は幕末には本家の中国に逆輸入されるようになる(『ウィキペディア』キク)。
日本で品種改良された菊に、心を惹かれた植物学者がいた。スコットランド出身のロバート・フォーチュンである。彼は東北アジアの植物に強い関心を持ち、1860年に日本と台湾を訪れている。
その際、染井・巣鴨周辺の植木村を訪問し、そこで見た世界最高水準ともいえる「菊」の園芸市場に大変驚いた、といわれる。
翌1861年に様々な品種を本国に送ったことで、流行に火が付き、以後イギリスを中心にヨーロッパでも菊の育種が盛んになった、といわれている(『ウィキペディア』キク)。