エピソード 昭和の“働きバチ”

個人会員 阿部 昭彦

 私は、昭和41年(1966)大手筆記具メーカー(P社:勤務は名古屋市)に入社し、研究開発、生産技術部門に5年間従事した。昭和46~55年(1971~1980)は、大手貴金属メーカー(T社)との合弁会社「TC社:プリント基板の製造」を名古屋に設立後、山形県鶴岡市に新工場を建設、工場経営に従事した。さらに昭和56年(1981)から、T社の営業部門に転籍した。
 私は、技術職(研究開発・生産技術)を目指していた。それが、突然の営業部門(国内外)責任者の辞令が通達された。出身地は横浜市金沢区であるが、その工場は山形県鶴岡市工業団地にあり、お米も魚や果物も美味しいところで、住みよくて骨を埋めても良いと思っていた矢先でびっくりした。
 工場経営時代に営業マンとはお客様を多く訪問(不良品の処理で)した。お客様に媚びを使う営業職は、自分には向かず苦手で一番やりたくない職種であった。しかし、当時は、会社の辞令は「神のお告げ」と思い、その職域・職場で一生懸命に精励勤め上げることは、誰もの共通認識であった。“昭和の”働きバチ”として、43年間(技術職14年、営業職29年)を無我夢中で働いた。その挑戦と失敗と勉強の人生経験をエピソード風にお話しいたします。

「エピソード1」(営業職として自分で決めた3年間の修行)

  1. お酒(日本酒)を飲めるように毎晩の特訓が一番の成果であり、今では人並み以上に楽しく飲める。野球をやっていたので、ゴルフは練習の暇がなく、本番が練習も兼ねて、まあまあの上達。カラオケは、自宅に通信カラオケを契約して毎晩の特訓で少し上達したかな! おはこは「奥飛騨慕情、細雪、さざんかの宿」の3曲のみ。毎度、同じ曲で皆さん聞き飽きたと思う!
  2. 海外営業も統括ということで、約半年間、山形県鶴岡市と東京本社の夜行列車の往復で、オーソン・ウェルズの英会話カセットを購入し勉強したが、お酒(日本酒)で心地良くなり、あまり上達はしなかった。

「エピソード2」(朝駆け夜駈けで無心の如く働いた)

  1. 日本の1970年代の高度成長期は、いずれの産業分野の企業も忙しく造っても、造っても間に合わなかった。早朝出勤と残業、休日出勤は当たり前で、誰も文句も言わず一生懸命・無我夢中で働いた。また、給料も7~15%毎年昇給し、これも暗黙の裡に励みとなった。
  2. お客様の接待「会食、スナック・クラブで2次会、3次会もあった」が終わって、明け方になる。直接、名古屋、大阪方面に出張があり、家に電話(当時は携帯電話なく)をするのを忘れ、家族から会社に「昨晩は家に戻らない!?」との心配の電話があり、「接待は本当か?」と家族からの疑惑を受け、信頼を失ったことも何度かあった。
  3. ゴルフも年間40~50回と休日の多くが潰れた。当時はゴルフブームで、他部門から会社の金でゴルフができることを「役得だね」と羨望の眼差しで見つめられたものである。最初は自分もそう思ったが、多くの休日の早朝から、遅くの帰宅は、どうぞ代わって下さいという心境に変わった。

「エピソード3」(T社社長からの特訓・失敗の連続)

  1. 高度成長期の会社としてのお客様の接待(会食、ゴルフ、カラオケ、麻雀)は、受注を得るための忖度な気持ちではなく日頃お世話になっていることに心から感謝の気持ちを表すことであると教えられ、これは大変な勉強になり、営業職のイメージを変えることになる。
  2. 最初の大失敗は、大手総合電機会社の役員級の接待が帝国ホテルの「伊勢長(京料理)」で行われ、これにカバン持ちとして出席した。宴も終わり頃、あがり間に用意されたお客様への“おみや”が7つあった。お客様は6名で、一つ多いと帳場に返した。翌朝、T社長から呼び出され、「阿部君、昨日の接待で“おみや”は、7つなかったかい」と言われ、「はい、7つありましたが、お客様は6名で、一つを帳場に返しました」。「バカ者!、その一つは私のものだ」。
      “おみや” がどんなに丹精込めて作られたかを賞味・確認するためだと言われ、その接待の厚い感謝の心持(お・も・て・な・し)に大変な勉強をした。
  3. ある時、大手企業の資材課長が来社され、本社・茅場町近くの“海女小屋”という、鰯を美味しく食べさせる料理屋で会食した。一週間後、T社長に呼び出され、「この接待届はなんだ!?」と言われ、「はい、お世話様になっている課長さんと会食しました」と答えると、「会食は良いが、店の名前の“海女小屋”が良くない」と叱られた。確かに名・物は体を表すという。
     そこで、T社長から「会社の費用でよいので、お客様と会食(接待)する場所(馴染みとなる店)を探しなさい」と言われ、探し回った。これは、思いの他大変なことであった。当時は、営業職としてどれ位、馴染みの店を持っているかは、重要なことであり、特に一流商社マンは際立っていて、同級生の商社マンに聞いたものである。数年掛かって何軒か探し当てた。

「エピソード4」(営業部門と営業マンの改革)

  1. 営業部門に着任し半年後、最初の執行は、営業マンの仕事振り・内容を知るために、日報(訪問目的、面談者、商談の内容・結果、所見)を1枚(A4)に箇条書きに書く(文章は起承転結)指示をした。ところが、「営業は外に出て“ナンボ”なのに日報など書く時間なんか無い」と中間管理職まで反発した。しかし、「日報を書くまで外出しなくてよい」と強行した。文章が書けないことは予測していたが、各項目欄に「特になし」が多いことにビックリ仰天。
     営業の仕事とは何か、仕事の進め方の基本を考え理解させるために、毎日全員の日報を読んで添削・質問の書入れは大変なロードであったが辛抱強く続けた。日報が普通に書けるまで丸1年掛かった。苦労の甲斐があり、「目標を立てて、その経緯と結果を自分自身で自己評価し、いわゆるPDCAを回して仕事をするようになった」。この成果は大きかった。また、日報を書く意義と大切さ(仕事が楽しくなった)を共有化できたことを共に喜んだことが強く心に残る。
  2. 次の改革は、個人の机を廃止して、テーブル式(指定席ではなく)に、また、営業部門の部屋内に、10畳間位の「レストルーム(緑茶、コーヒーなどを用意」をつくり、外から帰ったら、休憩し、営業マン同士の歓談を奨励した。人事部門から反対もあったが、強行した。営業マンから情報交換ができてとても良いと好評で、部内の活性化に繋がった。
  3. 営業部門に着任して6年後位に「女子営業つくり」と「営業へのQCサークルの導入」、10年後に「営業部門を受注営業(現業)と開発営業(新市場・事業の開発)の2部に分けて、将来への備えとなる組織改革」を行った。少しでも技術系出身の営業幹部として営業部門の改革ができたかは自分でも分からない!?

「エピソード5(海外出張で)」

  1. 韓国に合弁会社(ラッキーグループの電子・電機用貴金属材料)があり、四半期に一度、経営会議で出張した。そこの社長と親しくなり、お誘いで、特別に社長宅を訪問した。家族以外で初めて「愛する“和蘭室”」に入れて頂いた。社長は”和蘭“が趣味で200株を超える。毎日、“和蘭室”で、2~3時間入り眺(観)め、心を休める。200株すべてに名前(我が子のように)を付けて、その日の健康状態を観察しているとのこと。驚くべきは、株を購入した年月日、現在の年齢、花を咲かせた年月日、株が増えた時をすべて正確に記憶されている。日本に来ると、会議後の時間に大丸百貨店(東京)での「和蘭即売会」にお供し、高額な「和蘭」を購入し、ご機嫌で「和蘭」を語りながら、築地で「ふぐ料理」を食べたことを思い出す。人の「趣味の深さ」に感動した。
  2. 1999年に経産省主導の「燃料電池と利用技術の技術動向調査ミッション」として、ドイツのDC(現MB)を訪問し、由緒ある教会レスランで接待を受けた。ワインで乾杯「Prost(プロースト)」の後、接待側のダイレクターが、一人おいて隣席していた自分に、「Mrアベは、なぜ、マスクをしてプロテクト(防御)しているのか、ここには、毒ガスなど皆に危害を与えるものは何もないよ! 」と言われた。私は出国前から風邪を引いていたので、その説明をしたが、ドイツにはそのような習慣はないと強く言われ、結局はマスクを外して美味しいワインを堪能した。世界の国々の文化と習慣の違いをつくづく実感した。

「エピソード6」(体の修繕・修復・健康管理を徹底して行う)

  1. 当時の“昭和の働きバチ”は、仕事を会社の為とかという意識はなく、多少「家族の為」はあったが、兎に角、無心(理屈なく)で働いた(体を動かした)。そこで、当然、体に無理が来て、私自身も、「尿管結石、糖尿病、高血圧、眼底出血」を患った。これも、会社の仕事が原因とは全く考えず、体の自己管理ができなかったことは自己責任(反省)と思い修繕・修復に専念した。“昭和の働きバチ”は皆同じ心境であった。
  2. 先ずは、48才(平成2年)で大風邪を引き「タバコ(40本/日のヘビースモーカー」をピタリと止めることができた。尿管結石は、ある日、床に就いて間もなく痛くなり近所の主治医を起こして、朝方の6時頃に膀胱に結石が落ち、痛みが全くなくなり、会社に出勤し、そのまま大阪に出張した。主治医から、「水分(特にビール)を飲んで飛び跳ねていなさい」と言われ、これは、自分の得意なことと思い、大阪から帰った東京駅の居酒屋でビールを飲んで、飛び跳ねていたら、居酒屋のトイレで、無事に結石が体外に出た。「バンザイ! 」 原因は「肉の食過ぎ(炭酸カルシュウム過多)とのこと。
  3. 54才(平成8年)に、健康診断で眼底出血が見つかり治療した。既に数年前から、血糖値が高く糖尿予備軍と高血圧であり。眼科の先生から、糖尿病では有名な医者(現・銀座病院・副院長・久保明博士)を紹介され、治療が開始された。久保先生に「お酒は禁酒しないでの改善・修復治療」をお願いした。先ずは「寿命ドック」を受け、自分の体の強いところ、弱いところを診断され、「食事療法(糖化を防ぐ食事)と適度の運動(水泳を推奨された)をしなさい」と指導され、「命がけでやります」と言ったことを憶えている。これから、仕事のことは、少し置いて、自分の身体の改善・修復に専念するようになった。
  4. そこで、食事療法は、徹底した糖化防止(炭水化物を減らす)。運動は、「水泳」(「2,000m/日・平泳ぎ」を週に2日以上)を24年間続け、泳いだ距離は約6,500km(その距離は米国に届く)。糖尿病と高血圧の完全回復・克服に18年掛かった。病気の回復は病気に掛かった年数が必要と言われるが、その通りである。昨年からのコロナ禍で水泳をウオーキングに変えて、10,000歩/日を目標に、毎日の仕事として歩き続けている(7月27日現在495日継続)。お陰様でコロナ禍前より、心身共に健康を感じている。

 昭和の日本の高度経済成長期は激動の時期でもあったが、毎日、毎年、和魂洋才を以って企業も成長し、家庭生活も技術的、文化的な生活様式が入り込んだよき時代でもあった。我々年代の「昭和の働きバチ」の技術職と営業職時代を懐かしく思い出し、“乾杯”したい。
 これからも、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり(精神一到何事か成らざらん;“where there is a will, there is a way”)」を教訓と心情に、”粋に生き生き”と楽しく輝きたい。
 雑駁なお話で失礼しました。

以 上


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