個人会員 木下 武
メルマガ4月号に執筆依頼あり。理事長はトップバッタとの事。編集部より、サラリーマン時代のエピソードを書けとのご指名ですので、私が特許に携わるようになった経緯と、女性が日本の特許制度を守った話を紹介します。
まずは、自己紹介。
昭和10年戦前生まれの亥。津軽海峡を見渡す父親の実家で、小学4年生で終戦を迎えた。
昭和35年日本軽金属(株)に入社し、研究所7年、工場7年合計14年間を静岡でアルミ事業に携わる。昭和48年の第1次石油ショックは、電力の缶詰と言われたアルミの国内精錬を困難にし、昭和54年の第2次オイルショックで息を止められた。
多くの同僚が仕事を離れる中、第1次オイルショックの昭和48年4月に自然豊かな清水から、退社時間ともなれば脂粉の匂う銀座7丁目の本社特許部に転勤。 以来、平成2年から出向した IPCCを含め28年間特許に携わってきました。今日はIPCC=㈶工業所有権協力センターでの仕事を、エピソードを交えて紹介します。
IPCCは昭和60年に「世界最速・最高品質」の工業所有権審査の実現をサポートするために設置された財団法人です。大きく「先行技術調査事業」「分類付与事業」「公益事業」の3の事業があり、最初の2つが特許審査を高精度に迅速に行う為の事業になります。特許・実用新案の国内出願急増により、早期審査が要請され、各社からの出向技術者を含め毎年100名以上を募集していました。
さて、平成2年2月1日の出向初日、前日より都内は雪が10センチ以上積り、虎ノ門の本部、特許庁、その他事務所への挨拶周りを経て神谷町の事務所まで雪中行軍。滑るのでカバンに長靴を収納するなど、各社から出向したFタームグループ15名は難儀しました。 (夕刻、驚きの出来事。戸井理事長・理事・部長・課長が酒瓶を持参し丁重なるご訪問。)
Fタームは類似特許調査の為に特許文献を検索するための分類記号で、特許文献をご覧になると、表紙にその特許に関係する複数のFタームを見つけることが出来ます。特許審査は、従来紙の先行特許をめくって類似特許を調べていたのを、コンピュータ活用の為、Fタームの導入が決定され、開発チームが結成されました。
このFタームは庁内でも注目され、何しろ対象分野が膨大なため、果たして作成可能か心配もされました。成果を上げるため、3か月に1テーマ完成、ノルマ達成に土日まで出勤、夜は10時まで作業する羽目になった。スタッフ増強に伴い翌年、神谷町から錦糸町に事務所は移転しましたが、益々土日出勤が定常化。 「本社時代でもこんなことは無かったのに、ひょっとして会社に行くふりをして美人の部下と残業か」と、元部長の奥さん大心配。
ある土曜日の夕刻に事務所に電話あり、更にお菓子の差入れがてら様子見。事務所のメンバーは盛り上がり、Fターム開発作業が大いに進展しました。 日本の特許が今日あるのは、奥さん方のお陰なのです!?
Fタームはその後も定期的な改定により技術の進化に対応していますが、開発が終了した2年後に、増員含め30名の開発グループは先行技術調査に編入、実際の出願に対する先行技術調査を行うことになった。私は化学部門の金属加工グループに配置され、年間300件の先行技術調査と国際特許分類IPC付与を担当した。当初は書面報告のみであったが、平成10年頃から審査官との対話型が含まれ庁内端末機を操作し検索することが多くなった。電子化の増強と共に、明細書が分厚くなり先行技術調査も大変になった。化学部門でも分野により、例えば、高分子、医療、半導体等では、調査件数の調整が主幹達を悩ませることが多くなったようだ。
パソコン操作の学習、特許庁審査官との対応、企業技術者との交流術など体験し、NPO活動に役立つことが多々あり、地元での支援活動に寄与していると思います。
以 上