「隴山の音信」の故事:一枝の春

時候

隴山の音信:一枝の春

 一月になると、自然と梅に目が行く。ここに移り住んでから身に就けた習性なのであろう。今年、我が家の一輪の梅の花が綻んだのは1月下旬であった。例年より10日ほど遅い。寒が厳しかったせいか昨年梅の実が不作であったせいかはわからないが、蕾はどの枝にもびっしりと付いていた。
 しばらく見過ごしている間にもう2月下旬。どこも満開である。我が家の梅はすでに落梅に差し掛かっている。一枝の春はとうに過ぎ去っていた。

 「一枝の春」。そう称して、花の一枝を贈った人がいる。怪訝な気もするが、考えてみると納得できる。梅は百花の魁であり、春告草の異名も知られているからである。

 「贈范曄」。中国の六朝期、宋の『荊州記(けいしゅうき)』に記されている漢詩であるが、そこで詠われている。

 贈范曄    范曄(はんよう)に贈る
                  陸凱(りくがい)

 折花逢駅使  花を折りて駅使に逢う
 寄与隴頭人  寄せて隴頭(ろうとう)の人に与う
 江南無所有  江南 有る所無し
 聊贈一枝春  聊(いささ)か贈る 一枝の春

 贈り主は陸凱。江南の人である。友人の范曄は「隴頭」、すなわち隴山(ろうざん、今の陜西省と甘粛省の境をなす山)の麓にいる友人。
 「江南には何もない」、そういって、陸凱は、梅の一枝を折り漢詩を添えて駅使に託したのである。江南は梅の原産地といわれているから、その心意気もわかる。そして、北方の隴山に比べれば春の音信は早い。
 一枝の梅に春の音信を託し、「もう春はここに来ている」として届けたのであろう。なかなか粋な計らいである。
 (梅は、日本では万葉の時代に有名になるが、江南は稲作の原産地でもあり、梅は稲と一緒にすでに弥生時代に到来していたことが確認されている)

 ところで、范曄(398 – 445)は、宋の政治家・文学者・歴史家で、『後漢書』の作者(『ウィキペディア』范曄)、といわれる。
 陸凱は、呉の武将・政治家が知られているようであるが、198~ 269年年代の人であり(『ウィキペディア』陸凱)、友人とは考え難い。もう一人、? ~ 504年頃の人がいるが、北魏の人であり(『ウィキペディア』陸凱(北魏))、これも該当しない。

 どうも、贈り主は不明のようである。春は北東、すなわち艮の鬼門を越えてくるからであろうか。あるいは、それにあやかって詠われた漢詩であろうか。

 (奥谷 出)


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