「罪なくして斬らる」の由来について
『罪なくして斬らる 小栗上野介』は、大島昌宏による歴史小説。1994年10月に新潮社より刊行され、第3回(1995年)中山義秀文学賞を受賞した作品である。この小説は小栗上野介に焦点が当たる嚆矢であろう。
この「罪なくして斬らる」という語句は、小栗上野介の終焉の地、現在の高崎市倉渕町に建立されている顕彰慰霊碑からとられたものである。
碑文の由来について、小栗上野介の菩提寺「東善寺」の住職村上泰賢は次のように語っている。
小栗上野介は、慶応4年(1868)閏4月6日朝、家臣三名と共に倉渕村水沼の烏川河原に引き出された。幕府から「帰農願」の許可を得て、領地の権田村に移り住み、家族と共に60余日を過ごしただけで、明治新政府軍により無実の罪をもって一方的に処断され、むなしく烏川の露と消えていった。
処刑が終わると主従の首は青竹に刺して道端の土手にさらされ、次のような罪状を告げる高札が建てられた。
「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめし者なり。 東山道鎮撫総督府試使員」。昭和4年(1929)上野介の遺徳をしのび非業の最期を悼む村民は寄金を集め、この処刑地に顕彰慰霊碑を建てる計画を進めた。碑文には、「偉人小栗上野介 罪なくして此処に斬らる」、という文字が刻まれる予定であった。
ところがまもなく建碑責任者の市川元吉村長は、高崎署署長の呼び出しを受ける。「碑文に罪なくして斬らるとあるが、斬ったのは官軍だ。天皇様の軍隊が罪のない者を斬る筈がない、あの碑はおだやかではない、なんとかしろ」、と署長から告げられた。困った市川村長は、碑の撰文と揮毫をした京都大学法学部教授蜷川新に手紙を送った。「待っていなさい。田中(田中義一元首相)に伝えるから……」という蜷川の返事があった後、署長の話は沙汰やみとなって、今も顕彰慰霊碑は建っている。
Webサイト(『ようこそ倉渕村へ』小栗上野介に学ぶ)
というのである。
このことから、その文を考案し揮毫したのは、蜷川新だったことがわかる。
蜷川の母は上野介夫人道子の妹はつ子であり、蜷川は上野介の甥にあたる。
この人は、上野介の事績を残すことに尽力し、昭和3年(1928)9月に日本書院から『維新前後の政争と小栗上野の死』を刊行している。
その刊行が顕彰慰霊碑の建立に繋がっているように思われる。この推測は、後になって知った次の書簡により事実であることが確かめられた。
(略)御論文、並びに此度の御著書を頂戴仕り、60年前の昔、上野介の事績を偲ばるることを容易に得られたるは、小生のみならず、権田村民の嬉しく感激する所と存候、来る4月6日は、殿の命日に相當致候間、同日は早朝墓前に参拝、御著書を捧呈(ほうてい)し、聊(いささ)か英霊を慰む存意に有之候。(略)
『続維新前後の政争と小栗上野の死』上州権田村市川元吉氏の書簡
村長は上野介の死後4日に誕生されたそうであり、状況の理解はもう一つ進まなかったのであろう。著書の有難さが伝わってくる。
(旧江戸幕府軍の勢力を制圧するために、新政府によって設置された臨時の軍司令部が「東征大総督府」である。その下に北陸道鎮撫総督府、東山道鎮撫総督府、東海道鎮撫総督府の3つの組織が配備された。
そのうち、東山道を東征する東山道鎮撫総督府は、総督 岩倉具定( ともさだ:具視の子)、副総督 岩倉具経( ともつね:具定の弟)、参謀 宇田淵(山城の志士)・前野久米之助(土佐)で、 1か月ほどの後に、乾(板垣)退助(土佐)・伊知地正治(薩摩)に代わった(『ウィキペディア』東征大総督。
そして;斬殺を指揮したのは、東山道総督府の軍監原安太郎と豊永貫一郎であり、その届書を書いたのは大音龍太郎である。)