小栗上野介秘話

小栗家の系譜と小栗姓の由来について

小栗又一家の系譜

 『群馬県史料集 7 小栗日記』の「小栗家略系譜」によると、小栗家は、「清和源氏 義家流(松平支流)」であり、「寛永系図に、松平市郎某より系を初め、その子仁右衛門某がとき、外家の称号小栗に改める。今の呈譜には、泰親君の長男太郎左衛門信弘より四代太郎左衛門信吉、初め三河国岩津城に住し、親忠君の長男親長を養いて家督とし、岩津城を譲り、後同国筒針の城主小栗左京亮正重の妹を娶りて男子を設ける。これを一郎後仁右衛門忠吉という。云々。」、と記される。下記の系図が記されている。

1松平信吉 
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2松平忠吉 【市郎、一郎のち二右衛門。正重の養子となり小栗を名乗る(寛政譜)】
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3小栗吉忠 【又市、仁右衛門、小栗に改む(寛永系図)】
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4忠政 【上野国邑楽(おうら)、多胡、武蔵国足立三郡および下総国矢作(やはぎ)領の内にて采地】
 |   2,550石
5政信
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 信勝
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6政重 【寛文元年邑楽郡采地新田郡さらに下野国足利郡に転ず。
 |  寛永二年五月甲斐の国采地を上野国群馬郡の内に移さる】
7信盈(のぶみつ)
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9信顕  8喜政
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 忠顕 【妻は土屋数馬匡直の娘】 信就
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10忠清
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 くに┬11忠高    庄次郎 日下家に養子(日下数馬)
 ┌ー┘ 【中川忠英(ただてる)の四男で婿養子に入る】
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12忠順┬みち 【播州林田藩建部政醇の娘】
 ┌ー┘ー┐ーー┐ーーー┐
 |   鉞子 忠道 13忠祥【駒井朝温の三男で忠道の弟】
 | 【日下数馬の娘】
 国子┬14貞雄 【佐伯藩士矢野光儀の子。大隈重信、矢野龍渓の勧めで婿養子】
 ┌ー┘  【国子は会津戦争中に会津の野戦病院で誕生】
15又一   

  これには、次の付記がある。

  1. 小栗家の先祖は三河武士で代々徳川家に仕えた。忠政は軍奉行として名をはせ、姉川の戦に十六歳で出陣し、首級をあげ、常に戦功があった。(「またも一番槍」と家康に褒められ、「又一」を名乗れといわれた。)
  2. 知行地は二千五百余石の石高が続いていた。上野介の時に百五十石が加増された。
  3. 菩提寺は政信の時から江戸牛込の保善寺とした。
  4. 前記の系譜は、寛政重修諸家譜(寛政譜ともいう)より抜き書きしその後を付した。

ところが、『寛政譜』によると、上杉禅秀の乱・享徳の乱に起因する戦乱に敗走した常陸小栗氏が三河国へ土着し、その末裔の小栗正重( – 1494年?)の娘が松平氏一門・親長と婚姻して、生まれた男子が忠吉( – 1538年頃)である。
 親長と忠吉の母親は折り合いが悪く離別し、母親は忠吉と共に父の小栗正重の元へ寓居した。正重は忠吉を養子とし、小栗姓を名乗らせて三河小栗氏が発祥し、母系の出自である小栗氏の庶流として発展した。
 小栗忠吉は松平遠江某の娘と婚姻して小栗吉忠(又市)(1527年 – 1590年)を生む。この小栗吉忠が徳川家康奉行人として浅井道忠・道多父子とともに名を連ね、文献史上に登場することになる(『ウィキペディア』「三河源氏」)。

 「寛永系図」と「寛政譜」とを比べてみると、①松平親長と婚姻した女性を小栗正重の妹とするか娘とするか、②小栗の姓に改めたのを忠吉とするか吉忠とするか、③家祖を忠吉とするか吉忠とするか、の3つの相違が見られる。

小栗姓の由来

 「寛政譜」に「常陸小栗氏」の系譜が見られ、「三河小栗氏」の系譜に連なることがわかる。この系譜を遡ると、「常陸平氏大掾氏」、「桓武平氏」に辿り着く。

 常陸小栗氏は、常陸小栗の御厨(みくりや)のある常陸国真壁郡小栗邑に居住したことから小栗を名乗るようになった。また、藤沢の遊行寺の小栗判官と照手姫伝説の小栗判官は、常陸小栗氏の満重とされる。


「桓武平氏」    :桓武天皇→葛原親王→高見王→高望王(平氏の祖)
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「常陸平氏大掾氏」 :平国香→ 繁盛→惟幹(これもと)→為幹→重幹
   |       (良望)   →吉田・豊田・行方・鹿島・真壁・東條・下妻・小栗の8家に分岐
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「常陸小栗氏」   :重義→重成→重広→重朝→重信→頼重→重宗→重政→重貞→栓重→氏重→基重→満重→助重
   |       (重幹の子)
   |       小栗氏は常陸小栗の御厨の管理をする武将となったことから小栗を名乗ることになった。
「三河小栗氏」   :重弘→重久→真重→重昌→〇→正重→正次→正盛
           (栓重の子)


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