小栗上野介秘話


小栗上野介と渋沢栄一の奇妙な会話

 NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として渋沢栄一が取り上げられている関係からと思われるが、Webサイト検索において渋沢栄一に関する記事が見られるようになってきた。それらの中で、小栗上野介と渋沢栄一との会話がWebサイト『東善寺』に記載されているので、参考にして記してみたい。

 慶応3年(1867年)にパリ万博が開催されている。その前年にフランス皇帝ナポレオン三世から幕府に万博への出品要請と元首招請があり、将軍慶喜の弟で、御三卿の清水家の徳川昭武が名代として派遣されることになった。昭武はその後パリに留学する予定であった。(なお、この万博には佐賀藩、薩摩藩も出品し、日本ブームを起こしたといわれる。)

 慶応2年の12月頃、昭武は、出品準備のために横浜にいた。渋沢栄一も、会計・庶務等の係として随行することになっており、横浜にいた。12月のある日、出品責任者である勘定奉行小栗上野介は、昭武に出航前の挨拶に横浜にやってきた。その折に、渋沢栄一は上野介に会い挨拶している(『ウィキペディア』パリ万博)。(昭武一行が横浜を出航したのは慶応3年正月11日である。上野介はその時にも横浜に出張している。小栗日記に、正月9日~11日は横浜御用のため出張と記されている)。

 そのときの会話を、渋沢栄一が晩年に懐古して白石喜太郎に語ったものである。白石喜太郎は渋沢栄一の秘書を18年間勤めている。

渋沢 「今度民部様(昭武)御渡仏に付きまして、主として会計、俗事の係を仰付けられました渋沢篤太夫で御座います。将来共よろしく御願申上げます。
 民部様の目前の御用は仏蘭西大博覧会に御列席なさるという事で御座いますが、これが済みますと大約五年の御予定で御留学の筈で御座います。其間の事に付いて彼是心配致して居りますが、最も心にかかるのは会計の事で御座います。其辺の事は申す迄も御座いませぬがよろしく御指導御高配願ひます」

小栗 「いや鄭重の御挨拶で痛み入る。然し一体足下は五年も後のことを心配する柄でもあるまい。第一足下は討幕を企てた程の男ではないか、そんなことを心配するのは可笑(おか)しい」
 (渋沢栄一は、武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)の豪農の長男であったが、過激な攘夷論者で高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画を立てたが、従弟の説得で中止している。勘当され、御三卿の一橋家に仕えることになった(『ウィキペディア』渋沢栄一))。

 突然で流石の(渋沢)子爵もいささか面食らったが、何食わぬ顔で
渋沢 「然しそれは昔の話で御座います」

小栗 「左様昔には相違ないが、未だものの1年か2年しか経過して居らぬではないか…」
 鋭鋒はすかさず迫る。
渋沢 「では御座いますが、只今では左様も考へて居りませぬ」
 何所までも子爵が生真面目で居るので小栗も追及の鋒をおさめた。

小栗 「いやそれは戯談である。兎に角今度の民部様御奮発は眞に結構の事である。自分も衷心より喜んで居る。足下の事も承知致し居る。足下の如き為すあるの士が御補佐申上げることは重畳至極と思はれる。何卒十分御精励あるやう希望する。
 会計のことに付いては5年は愚か三年でも二年でも将来のことは全然分らぬが、然し病に倒れるか、身を退くかすれば分らぬこと、苟(いや)しくも不肖小栗が職に在る間は決して心配はかけぬから安心して行くがよい。
 然し呉々も幕府が何時如何になるかは全然分らぬから―此点は敢えて小栗が斯く憂慮するばかりでなく、皆人の斉(ひと)しく感ずる所であるが―或は生きて再び民部様御健勝の御様子を拝することは出来ぬかも知れぬが、其時は其時で如何にかならう。決して心配することはいらぬ。
 然し幕府の運命に付いての覚悟だけはしっかりきめて置くことが必要であらう」

 斯くて袂を分ったのが、小栗の斯言悲しくも事実となって一年ならずして彼の如き悲惨極まる末路を見たのであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下略)

 昭和5年3月7日 飛鳥山邸に病後の子爵を訪ひ閑談中に聞き得たる所を
                                         (『白石喜太郎憶記』)


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