小栗上野介秘話


小栗上野介の評価

 小栗上野介は、近年高く評価されてきているが、それらの中で、特に著名なものを列挙すると次のようになる。

  1. 意気軒昂に感嘆、その結果は: 播州林田藩主 建部政醇
     上野介は、14歳の頃に播州林田藩主建部政醇(まさあつ)の江戸屋敷を訪ねている。
     そのときの意気軒昂振りを、蜷川新は『維新前後の政争と小栗上野の死 』の中で、林田藩士の弁として、
     「小栗上野介は、年僅かに十四歳の頃であったが、初めて建部家の客となりて来邸せられし折、あたかもその挙動、全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々、応待し堂々としてすでに巨人の風あり。未だ十四の少年にてありながら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつつ、一問一答建部政醇藩主と応答し、人皆その高慢に驚きながら、後世には如何なる人物となられるであろうかと噂しあった」
    、と語らせている。
     
     小栗上野介の妻道子は、その時の藩主の娘。幼名は綾姫。作家の星野亮一は、「衣通姫(そとおしひめ)と噂された美貌の乙女で、小柄ではあったが、大名の息女にふさわしい気品と優雅さを漂わせていた」、と『上州権田村の驟雨』の中で表現している。
     衣通姫とは、本朝3美人の一人で、その美しさが衣を通しても輝くことから名の由来となった、といわれている。
     年齢は7歳であったが、その時すでに嫁がせる決意をしたといわれている。
     
     これは、上野介に関する逸話の中でも古いものである。
     
  2. 遣米使節抜擢の英断:大老 井伊直弼
     司馬遼太郎は、『「明治」という国家』の中で、「幕府は正使・副使をお飾りとし、切り札のような俊秀として小栗を目付として加えたのです。大変な人選だと思います。この小栗がー幕府瓦解とともに幕府に殉ずるようにして死にますが、明治国家の父の一人として位置づけざるをえないということを語りたい」、といっている。
     
     その抜擢の英断を下した人が井伊直弼である。安政6年(1859年)、33歳のとき、お使番に過ぎなかったが、本丸目付(監察)に抜擢され、さらに9月13日に遣米使節の目付に内定されている。
     安政5年の後半から人事的な変動が多くなっていることが目を引く。
     
    ① 安政4年(1857) 31歳
      ・1月  御使番就任 伝令・巡視の役目
      ・潤5月 日米協約九ヶ条(下田条約)調印
      ・6月  老中安部正弘急逝。堀田正睦、老中に就任
      ・10月 ハリス、江戸城で将軍徳川家定に謁見、大統領国書を渡す
      ・12月 布衣(ほい)叙任 従六位相当
    ② 安政5年(1858) 32歳
      ・4月 井伊掃部頭直弼 大老就任
      ・6月 未勅許のまま神奈川沖ボーハタン号艦上で日米修好通商条約調印
      ・7月 英露蘭と修好通商条約調印、将軍家定逝去
      ・9月 仏と修好通商条約調印(安政の五カ国条約)。
          安政の大獄始まる。目付就任  
      ・10月 徳川家茂、十四代将軍就任
      ・11月 諸太夫、豊後守叙任
      ・12月 遣米使節派遣が正式に決定
    ③ 安政6年(1859) 33歳
      ・5月 米英露仏蘭、五カ国に貿易許可
          英国駐日総領事オールコック着任
      ・6月 横浜、長崎、函館開港
      ・9月 本丸目付及び外国掛
          遣米使節目付内命
      ・11月 叙爵従五位下、豊後守叙任
      ・12月 第14代将軍家茂から遣米使節目付を任命
    ④ 安政7年(1860)
      ・1月 随行艦 咸臨丸品川出航:勝海舟、福沢諭吉、小野友五郎乗船
          築地の講武所 米艦ボーハタン号(2,415トン)出航
           遣米使節団 16名の正式団員と従者を合わせて77名 
           312人のアメリカ人乗組員

     因みに、正使の新見豊前守正興(40歳)は、外国奉行兼神奈川奉行で、副使の村垣淡路守範正(48歳)は、外国奉行兼神奈川奉行・函館奉行 であり、すでに要職にあった。

     しかし、目付も重要であったようである。老中が政策を実行する際も、目付の同意が無ければ実行不可能であり、将軍や老中に不同意の理由を述べる事ができ、その権能は、幕末の思想家栗本鋤雲が著書『出鱈目草紙』の中で「その人を得ると得ざるとは一世の盛衰に関する」と評すほどのものだった(『ウィキペディア』目付)、という。
     幕末には、外国との会談・交渉の際にも、目付を同席させた。その際に目付の職務を説明したところ、「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを同席させているのか。」という嫌疑を受けた、という。
     幕府は外国の職務で目付に相当するものが無いか調べ、遣米使節で小栗忠順が目付として赴いた際には「目付とはCensorである」と主張して切り抜けた(『ウィキペディア』目付)、という。
     
  3. 通貨・為替交渉の成功:ザ・フィラデルフィア・インクワイヤラー紙
     万延元年4月2日(1860年5月22日)、アメリカ国務省内で日米修好通商条約の批准書の交換が済むと、上野介は通貨・為替交渉の準備に取り組む。フィラデルフィアで1両小判と1ドル金貨の交換比率を決めることになった。

     その通貨・為替交渉について、ザ・フィラデルフィア・インクワイヤラー紙は、
     「オグロ・ブンゴ・ノカミ(小栗豊後守忠順)は、会談が始まると秤を取り出した。それを見て我々は、ショックを受けた。我が国では鉄で出来ている部分が、日本では象牙で作っている。約1フィートの長さにわたって精緻な目盛りが刻まれ、皿と錘が付いている。実験してみると一分の狂いもない精密さを保っていた」
     「日本の役人の一人は、アバカス(算盤)を持っていた。5ずつの木製のボタンが15列並んでいる。そのボタンをあちこち滑らせると、恐るべきスピードで計算できてしまうのである」 アメリカの優秀な技師たちが苦労して手計算しているのを、煙管をくわえ忠順たちは微笑みを浮べながら待っていた。
    と、1860年6月15日付けで報じている(Webサイト『よこすか人物クラブ』小栗上野介忠順)。
     慎重の中にも大胆、そういうものを見ている気がしてくる。上野介の面目躍如というところであろうか。
     
     通貨・為替交渉の大役は、上野介への内命であったようで、金の含有率の計量が終わると、その他の貴金属の含有率の計量を提案し計測に持ち込んだといわれる。その成果か否かは不明であるが、攘夷の嵐の中で200石加増されている。
     
  4. 日本使節のブラック判事:ニューヨーク・ヘラルド紙
      ニューヨークに着いた使節団は、日の丸と星条旗を持った数十万(当地の新聞では80万人)の市民の大歓迎を受け、ブロードウェイを馬車を中心にしてパレードを延々と続けたといわれる。
     その強烈な印象は、翌朝の新聞に大々的に取り上げられ、また、「ブロードウエーの華麗な行列」として詩に詠われ、ホイットマン詩集『草の葉』(岩波文庫)に収められている。

     そして、ニューヨーク・ヘラルド紙は、上野介について、 
     「監察オグロ・ブンゴ・カミは、小柄だが、生き生きとした、表情豊かな紳士である。威厳と、知性と、信念と、そして情愛の深さとが、不思議にまざりあっているのである」
     「オグロは、明らかにシャープな男である。ワシントンで『日本使節のブラック判事』(当時アメリカで最も人気があり、尊敬されていた人物)とニック・ネームがついたのももっともなことである」
     「オグロは、使節団の中心である。なにごとも、彼の同意がなければ決定できない。彼のからだのすみずみに、秋霜の厳しさがみなぎっている」
     
    と記している(Webサイト『よこすか人物クラブ』小栗上野介忠順)。
     
  5. 小栗豊後守の献策:大村益次郎
     新政府軍の軍神ともいわれた大村益次郎は、「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」、と云われたという。

     鳥羽・伏見の戦いで敗れた将軍徳川慶喜は、秘かに江戸城に逃げ帰り、慶応4年1月12日に江戸城の大広間で善後策を検討したことがある。
     その時、上野介は主戦論を展開し、東征する東海道鎮撫総督軍を駿河湾からの艦砲射撃で分断する作戦を献策した。その作戦は多くの者の支持を得たが、慶喜の恭順への傾斜で実行に移すには至らなかった(『維新前後の政争と小栗上野の死 』)、といわれる。
     大村益次郎の言葉の中にある「小栗豊後守の献策」とはその作戦を示唆している。
     
  6. 「幕末の3傑」の一人 :福地源一郎
     江戸の語り部の一人ともいわれる、福地源一郎はその著書『幕末政治家』で、岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順の3人を「幕末の3傑」として讃えている。これは、上野介を讃えた最も古い書物の一つであろう。
     
     「人となり精悍敏捷、多智多弁」とし、事績について、次の三つを挙げている。
     
    ① 米国の文明の事物を説き、導入を図ったこと。
     ・フランス公使の紹介をもって、フランスより工師、技師を招聘し、英仏より幾多の器械を買い入れ、多額の資金を投じて今の横須賀造船廠を設けたるは小栗の英断なり。
     ・「たとえ徳川氏がその幕府に熨斗をつけて他人に贈るまでも。土蔵付の売家たるは又快からずや」といいたるが如き。もって、小栗の心事の一端を知れり」、と云っている。
     
    ② 幕府財政のやりくりに身命を賭したこと
     ・財源を諸税に求め、あるいは厳に冗費を省きてこれにあて、まだかって財政困難なるをもって、必要なる施行を躊躇せしむることなかりけり。そのために、俗士輩からの怨府となりけり。
     ・紙幣をつくったっが、「時機これをゆるさず」と抗議して不換紙幣の発行承諾せざりけり。
     
    ③ 軍の近代化
     ・その領地の高に応じて賦兵し、合わせてその費用を出さしめ、これをもって数大隊を組織し、つとに徴兵制度の基礎を建てたり。
     ・フランスより教師を招聘し、賦兵の訓練せしめ、陸軍学校を設けて将校を要請せしめたり。
     
  7. 国家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあったであろう:三井銀行中興の祖 三野村利左衛門
     三井銀行中興の祖 三野村利左衛門は、父忠高の時代に小栗家の中間を務めたことがあり、それが縁で小栗と三井の間のパイプ役として三井に務めるようになったといわれる。
     その三野村は、「もし先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、国家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあったであろう。余の為す所の如きは、先主よりこれを見れば、児戯に過ぎざるのみ」、と評したという(『維新前後の政争と小栗上野の死』 )。

     鳥羽・伏見の戦いの後、江戸城における評定で新政府軍に対して交戦継続を主張して罷免された、小栗忠順に対して、罷免後、身の危険が迫っていると察し、米国亡命を勧めたとされる。三野村に促がされたのでは無いが、元若年寄で小栗と共に兵庫商社の設立を推進した塚原昌義などは、身の危険を感じ、米国に亡命している(『ウィキペディア』三野村利左衛門)。
      
  8. 勝海舟が語る「小栗上野介」 
     小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の情勢にも略ぼ通じて、しかも誠忠無比の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。あれは三河武士の長所と短所とを両方具えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった(『氷川清和』)。
     
     しかし、福沢諭吉は、『瘠我慢の説』で、「古来士風の美をいえば三河武士の右に出る者はあるべからず」と、三河武士を高く評価しており、「いかなる非運に際して辛苦を嘗(な)むるもかつて落胆することなく、家のため主公のためとあれば必敗必死を眼前に見てなお勇進するの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるがごとし」としている。
     そして、「その趣を喩えていえば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠たらざるがごとし」とも言っている。(なお、これに類似した名言が小栗上野介にもある)
     福沢諭吉は、勝海舟の無血開城や徳川家77万石領有の功績は認めながらも、やせ我慢で示した武士の矜持に反する勝の行動を批判している。 
     
  9. 近代化政策は小栗忠順の模倣:大隈重信
    大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」、と語っている。これにより、上野介の復権が始まったともいわれるが、実態はなかなか進まない。
     大隈の妻である綾子は小栗の親族であり、幼少時には兄の三枝守富とともに小栗家に同居していた時期があった。時流を先読みして行動する小栗の姿勢について感化を受けていた、といわれる。
     
  10. 日本海海戦に勝利の謝礼:東郷平八郎
     明治45年(1912年)7月、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。
     横須賀製鉄所で、船の修復をして海戦に臨んだために有名な東郷ターンに成功したことを指しているのであろう。
     
     なお、小栗貞雄は、会津戦争のさ中に会津の野戦病院で誕生した上野介の遺児国子と結婚しているが、その媒酌の労を取ったのが、郵便制度を創設したことで知られる前島密であった。上野介が郵便制度を考えていたことと関係しているのであろう。
     
  11. 徳川幕府の末造に於て、その識見手腕天下に匹i儔(ひっちゅう)するものなし:山川健次郎
     山川健次郎は会津藩出身の物理学者・教育者。理科大学学長、東京帝国大学総長、京都帝国大学総長などを歴任。見出しの言葉は、蜷川新著『維新前後の政争と小栗上野』の序文に、下記のように記されているその一部である。
     「徳川幕府の末造に於て、その識見手腕天下に匹i儔(ひっちゅう)するものなし。其の廃藩置県を主張せるが如き、其の横須賀の造船所を創建せるが如き、識見手腕の一班を見るべく、その他外交に経済に、其の国家に貢献せしもの甚だ多し」
     
  12. 「兵庫商社」を創った最後の幕臣:坂本藤良
     坂本藤良は経営学者。『小栗上野介の生涯 「兵庫商社」を創った最後の幕臣』を講談社 から1987年に刊行し、「兵庫商社」という株式会社組織を初めて作った人として小栗上野介を経営的な側面から評価している。
     上野介の多彩な才能を評価するきっかけを与えたのではないかと思われる。
     
     この株式会社組織は、遣米使節の折に、パナマ鉄道に乗車したことが発端といわれている。パナマ鉄道に乗車した使節一行は、そのスピードに感嘆し狂喜していたようであるが、一人、上野介はこの鉄道はどうやって作ったのかなどの質問をして株式会社組織というものの存在を知ったようである。
     これはパナマ鉄道乗車の故事ともいえるものであろう。
     それが、その後の兵庫商社の設立や築地ホテルの建築に活かされていったようである。
     
  13.  五人の「明治国家の父」の一人ー「国家改造の設計者」:司馬遼太郎
     『「明治」という国家〔上〕』は、NHKブックスから1994年1月に刊行されている。
     司馬遼太郎は、この中で、維新を躍進させた坂本龍馬、国家改造の設計者・小栗忠順、旧国家解体と新国家設計の助言者・勝海舟と福沢諭吉、無私の心をもち歩いていた巨魁・西郷隆盛の5人を取り上げ、国民国家形成を目指した“明治の父たち”は真に偉大だった、と評価している。

 


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