小栗上野介秘話


小栗上野介関連年譜

寛永10年(1633)上野国群馬郡権田村東善寺開山
宝永元年(1704)◎権田村、小栗家の采地(知行地)となる(『上州権田村の驟雨』)
天明7年(1787)4月 徳川家斉、第十一代将軍就任
文政6年(1823)1月30日 勝海舟誕生
文政10年(1827)◎6月23日 神田駿河台の小栗邸に誕生。幼名剛太郎
・12月7日 西郷隆盛誕生
天保5年(1834)◎8歳、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合う
◎8歳、この頃から剣道,柔術,砲術を学ぶ
天保8年(1837)9月 徳川家慶、第十二代将軍就任
天保11年(1840)◎14歳、播州林田藩建部家訪問
天保13年(1842)7月 異国船打払令発令
天保14年(1843)◎17歳、初登城。将軍に国書院において初御目見得。部屋住みとなる。
・閏9月、阿部伊勢守正弘 老中就任 25歳
弘化4年(1847)◎4月 21歳、御書院番組就任。部屋住から城中出仕になる。虎の間 諸門警備、諸儀式の世話役、将軍出行の際は供奉し、市中巡回
嘉永2年(1849) ◎23歳、播州林田藩建部家長女道子と結婚
嘉永3年(1850)井伊掃部頭直弼、兄の井伊直亮の没後、第十三代彦根藩主
嘉永6年(1853)・6月3日 ペリー率いるアメリカ東インド艦隊、浦賀来航
・6月9日 久里浜上陸 米大統領フィルモアの国書を幕府応接係戸田伊豆守氏栄受理
・6月22日 将軍家慶逝去。
・7月 幕府、諸大名・御目見得以上の幕臣に国書開示、意見を求める
◎7月5日 本丸勤務の進物番出役就任 紅葉間
・7月18日 プチャーチン、ロシア極東艦隊を率いて長崎来航
・11月4日 徳川家定、第十三代将軍就任。慶喜との相続争い
・11月23日 徳川家定、第十三代将軍就任。薩摩藩主島津義彬の養女篤姫と結婚、天障院
◎浜御殿詰警備役就任
「三本マストの木造船を建造して大いに貿易をすべきである」(『徳川幕府の大いなる遺産 横須賀造船所』)
嘉永7年(1854)・1月16日 ペリー再来航
・3月3日 日米和親条約調印
◎7月7月 父忠高 新潟奉行就任
・11月27日 安政に改元
安政2年(1855)◎29歳、7月 父忠高病死。跡目相続。又一と改名。
・10月2日 安政の大地震(M6.9と推測)
安政3年(1856)・4月25日 江戸築地に講武所開設
・7月21日 初代日本総領事タウンゼント・ハリス来日
安政4年(1857)◎31歳、1月11日 御使番就任 伝令・巡視の役目
・1月18日 江戸九段坂下に蕃書調所開設。
・閏5月5日 日米協約九ヶ条(下田条約)調印
・6月17日 老中安部正弘、江戸城内で執務中に急逝。
     堀田正睦、老中に就任
・10月21日 ハリス、江戸城で将軍徳川家定に謁見、大統領国書を渡す
◎12月16日 布衣(ほい)叙任 従六位相当。
【江戸時代、武士の大紋に次ぐ四番目の礼服(無地の狩衣)。また、それを着る御目見(おめみえ)以上の身分の者。幕府の服制に準拠して,侍従以上は直垂,四位の諸大夫は狩衣,五位の諸大夫は大紋,御目見 以上無位無官の士は布衣,平士・陪臣は素朕】
安政5年(1858)32歳
・4月23日 井伊掃部頭直弼 大老就任
・6月19日 未勅許ままに神奈川沖ボーハタン号艦上で日米修好通商条約調印。下田奉行井上信濃守清直,目付岩瀬肥後守忠震 国際社会の仲間入り
・7月 英露蘭と修好通商条約調印
・7月6日 将軍家定逝去
・8月8日 戊午(ぼご)の密勅
・9月 仏と修好通商条約調印(安政の五カ国条約)。
・9月 安政の大獄始まる
◎9月12日 目付就任 。江戸城内外の査察,非常時の差配,殿中礼法の指揮,評定所立合,万石以下急養子の判元見届などの職務
・10月25日 徳川家茂、十四代将軍就任
◎11月25日 豊後守叙任
安政6年(1859)33歳
・5月 米英露仏蘭、五カ国に貿易許可。
・5月26日 英国駐日総領事オールコック着任
・6月 神奈川、長崎、函館開港。
◎9月2日 本丸目付及び外国掛就任
【本丸目付:トップの理念や計画通りに、働く人間がきちんと仕事をしているかを見極めるの役目。江戸城の監察官】
「大獄は、五手と名づけて、寺社奉行、勘定奉行公事方、大目付、御目付の会議裁判に附するが例なれば、此の度の大獄も勿論この五手立会吟味と定まりて」(『幕末政治家』)
◎9月13日 遣米使節目付(観察)内命
◎11月21日 叙爵従五位下、豊後守
◎12月1日 第十四代将軍家茂から遣米使節(目付)を任命。
◎6年末  よき子を養女に迎える。
安政7年(1860)
万延元年
・1月13日 随行艦 咸臨丸品川出航 勝海舟、福沢諭吉、小野友五郎乗船
・1月18日 築地の講武所出航。米艦ボーハタン号(2,415トン)で出帆
遣米使節団:16名の正式団員と彼等の従者を合わせて77名。312人のアメリカ人乗組員
・2月14日 ハワイ・ホノルル着
・2月18日 ハワイのカメハメハ国王、同妃エンマに謁見
・2月27日 ハワイ出航
・3月3日 桜田門外の変  大老井伊直弼暗殺
     春浅み野中の清水いてついて
        そこの心を知る人ぞなし 井伊直弼
・3月9日 サンフランシスコ着、咸臨丸一行と合流。
アメリカ合衆国造幣局サンフランシスコ分廠視察(下調べ)
・3月18日 サンフランシスコ出航
・3月18日 万延に改元
・閏3月5日 パナマ着。汽車にて大西洋岸へ
・閏3月7日 米艦ロアノーク号でアスペンオール出航
・閏3月25日 ワシントン着。歓迎のうちにウィラードホテルに入る。
・閏3月27日 ホワイトハウスでブキャナン第十五代大統領に謁見。国書贈呈。烏帽子・狩衣に鞘巻の太刀の盛装。【ニューヨーク・ヘラルド紙「日本紳士のトータルアンサンブルは趣味と芸術の結晶で最高の完璧さ」と激賞】
・4月2日 カス国務長官 国事館にて条約批准書交換
     (日付は安政7年4月3日)   
◎4月4日 ワシントンで日米通貨・為替交渉開始
【安政小判を三分の一にした万延小判を鋳造し、金銀比価を1対15.74とし国際比価に最も近いものにしていた】
◎4月5日 ワシントン海軍造船所見学。製造工程見学
・4月20日 ボルチモアにて歓迎を受け一泊
・4月21日 フィラデルフィア着。コンチネンタルホテルに宿泊
◎4月25日 上野介の発意により金貨製造所見学
 合同実験により安政小判一両と三ドル四十一セント新通貨交換為替レート決定
  金と銀の交換比率 日本一対五 外国一対一五
・4月28日 ニューヨーク着。市民の大歓迎を受ける。ニューヨーク州陸軍8,000人の閲兵を行い、メトロポリタンホテルに入る
・5月5日 咸臨丸 浦賀帰着
・5月8日 歓迎舞踏晩餐会。出席者一万人を超える。
・5月13日 米艦ナイアガラ号にてニューヨーク出航
・5月29日 アフリカ ベルデ岬諸島着
・6月2日 ベルデ岬諸島出航
・6月21日 アフリカのロアンダ着
・6月30日 アフリカのロアンダ出航
・7月11日 希望峰通過
・8月16日 ジャワ着
・8月17日 ジャワ バタビアに入り、オランダ提督に面会
・8月27日 バタビア出帆
・9月10日 香港着
・9月18日 香港出航
・9月27日 横浜着
・9月28日 築地帰着 海軍所より上陸
・10月 使節報告 3人 金10枚、時服3
   上野介、二百石加増、上野国多野郡森村、小林村
【一番の収穫は、遠くから小さな日本を見直す機会が与えられたこと、それによって自分自身を知ることができたことだ」と述懐】
・11月8日 外国奉行就任
・12月5日 米通訳官ヒュースケン殺害
万延2年(1860)・2月3日 ロシア軍艦ボサドニック号が対馬国芋崎浦停泊
文久元年(1861)・2月19日 文久に改元
・4月6日 ロシアと交渉のため品川出帆
     ボサドニック号対馬国芋崎を不法占拠
・4月13日 ロシア艦の退去勧告
◎4月18日 ロシア船問題で対馬へ向け江戸出航
◎5月7日 対馬到着
◎5月10日 対馬到着
◎5月14日 ポサドニク号でビリレフ艦長と談判
◎6月20日 対馬から江戸へ戻る
◎7月1日 外国奉行辞任願提出
◎7月26日 外国奉行辞任願提出
・9月26日 外国奉行辞任願受理
 攘夷派の過激浪士がアメリカ人ヒュースケン殺害
 水戸浪士が高輪東禅寺のイギリス公使館襲撃
◎9月対馬事件の調整に失敗し、意見書を上申し、同辞任
文久2年(1862)36歳
・1月15日 坂下門外の変 安藤信正、水戸浪士に襲われる
・2月11日 将軍家茂と皇女和宮の結婚
◎3月 小姓組番頭
・4月11日 安藤信正 武士道不覚悟の理由で罷免
      政権交代 老中の交代
◎5月18日 御軍制御用取調就任 家茂の軍制改革
◎6月5日  勘定奉行勝手方就任。名を上野介と改名
  人との出会い  板倉勝静
・6月7日 朝廷勅使大原重徳、護衛島津久光 江戸城入城。幕政改革要求
・7月6日 一橋慶喜、将軍後見職就任
・7月9日 松平慶永 政事総裁職就任
◎8月25日 江戸町奉行就任
・8月21日 生麦事件:薩摩島津久光の行列が英国人を斬る
・閏8月1日 会津藩主松平容保、京都守護職就任
◎12月1日 歩兵奉行就任
文久3年(1863)37歳
・栗本瀬兵衛 目付、監察。 江戸召還
・3月4日 将軍家茂、上洛
・4月20日 幕府「5月10日を攘夷期限とする」と上奏
◎4月23日 一橋慶喜の加増に死を以て反対して奉行罷免
・5月9日 幕府、イギリスへの生麦事件などの賠償金の支払い
・5月10日 長州藩、馬関海峡を通過するアメリカ船を砲撃。続いて、フランス艦、オランダ艦を砲撃。
・5月18日 幕府、イギリス、フランスの守備兵の横浜駐屯認可
・6月10日 フランス、イギリス、アメリカ、オランダの代表 長州藩攻撃決議
・7月2日 薩摩藩、来航したイギリス艦隊と交戦(薩英戦争)
◎7月28日 陸軍奉行並就任
・8月13日 攘夷親征の大和行幸詔勅
・8月17日 天誅組の乱発生。(9月24日壊滅)
・8月18日 文久3年8月18日の政変(公武合体派のクーデター)
【薩摩・会津両藩が加わって,京都から尊王攘夷派の中心であった長州藩と,それと結ぶ急進派公家とを追放】
・9月13日 この頃、幕府人事改正。攘夷の実行・鎖港の路線、越後長岡藩主 牧野忠恭(ただゆき) 老中
・9月14日 幕府、横浜鎖港をアメリカとオランダに提議
・9月24日 幕府、生糸など五品目の神奈川直接積出しを禁止
・10月12日 生野の変。10月14日鎮圧。
・11月1日 薩摩藩、生麦事件の賠償金十万ドルをイギリスへ支払い
・12月24日 牧野忠恭 外国事務管掌
・12月29日 外国奉行池田長発(ながのぶ)ら、鎖港談判のためヨーロッパへ出発
・12月30日 徳川慶喜、松平容保(かたもり)、松平慶永(よしなが)、山内豊信、伊達宗城、朝議参予
文久4年(1864)
元冶元年
38歳
・1月13日 島津久光、朝議参予
・1月15日 第十四代将軍家茂、再上洛
・2月14日 将軍家茂、横浜鎖港奏上
・2月15日 松平容保、松平慶永、京都守護職と政事総裁職の職務交代
・元冶元年(1864)
・2月20日 元治に改元
・3月9日 参予会議解体
・3月22日 フランス公使レオン・ロッシュ着任。フランス公使通詞 カション
【フランス公使レオン・ロッシュと協力、幕政改革】
・3月27日 水戸天狗党挙兵
・4月25日 イギリス、フランス、アメリカ、オランダ 下関通行と横浜鎖港に関する覚書を幕府に通告
・5月17日 外国奉行池田長発(ながのぶ)ら、フランスとパリ約定に調印
・6月5日 池田屋騒動
・7月19日 禁門の変(長州藩、京都に乱入、敗退)
・7月24日 イギリス、フランス、アメリカ、オランダに対しパリ約定破棄を通告
・8月2日 将軍家茂、第二次長州征伐を発令
・8月5日 イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国・下関攻撃開始
◎8月13日 勘定奉行就任。【「横須賀に製鉄所を作る事業一切に関すること」という命令。特に、横須賀製鉄所建設の資金繰りやその運営費の賄い。担当者:栗本瀬兵衛(せへえ)、木下謹吾、浅野伊賀守、山口駿河守、石野筑後守、柴田日向守】
・8月14日 長州藩、四国連合艦隊と講和
・9月1日 参勤交代復活。江戸、賑やかさを取り戻す
・9月11日 勝、西郷の密談
【福沢諭吉は、勝のことを「両親が病気で死のうとしているとき、もうダメだと思っても看護の限りを尽くすのが子というものであり、それが節義ではないか」と、幕府の人間でありながら幕府を見捨ててしまった勝を、強く批判しています】
◎11月4日 栗本瀬兵衛からの書簡(製鉄所雇仏人に関し、カションとの談話の模様)
◎11月10日 横須賀製鉄所設置決定
◎11月26日 横須賀に造船所を建造することを決める
◎12月2日 陸上、水上の両方から測量。横須賀が候補地に絞られました。
◎12月18日 軍艦奉行就任。勝の後任
元冶2年(1865)39歳
◎1月 フランスとの間に製鉄所建設引き合いの廉書作成。横須賀製鉄所設立趣意書作成
◎1月 横須賀製鉄所取立任命 7人
◎1月 ヴェルニー横浜着
◎1月下旬 神奈川奉行所でヴェルニーの製鉄所案の説明を聞く  
◎1月29日 横須賀製鉄所約定書承認
・2月2日 長官ジョーライス、ヴェルニーと帰国
◎2月21日 軍艦奉行罷免(横須賀製鉄所設立の責任をとる。石造りの洋館建設:アメリカで耐火家屋に関心をもち、設計図を持ち帰る。日本最初。)
◎3月6日 横浜フランス語伝習所開校
元治2年
慶応元年(1865)
39歳
・三井両替店が幕府の御用両替商であったことはご存知のとおりです。
 江戸の三井家は幕府の政策と結びつくことで営業をしていました。江戸市中融通貸付や関八州通用金札引き受けなどです。
 それに対して京の三井家は慶応元年以来薩摩藩と接触し、鳥羽伏見戦争の資金を始め草創期の政府の資金の提供をしていきます。官軍の東征に際しては、三井は東征軍の金穀方を命ぜられ手代を官軍に随行させました。
 三井の担当した「東山道鎮撫使」は、軍資金が枯渇すると京都から資金を取り寄せて軍を進め、また資金不足になると京都に使者をだすといった有様でした。
     (旧三井銀行の編纂した「三井両替店」参照)
◎横須賀製鉄所建設を計画
◎閏5月3日 遣仏使節、機械類の購入と要員雇入れの交渉。代表:外国奉行柴田日向守剛中(たけなか)
・4月7日 慶応に改元
◎5月4日 勘定奉行、費用工面
・閏5月25日 将軍家茂、大阪城入城
 【第二次長州征伐宣言 第一次の約束事項十厘】
・8月1日 横浜にフランス学校設立
◎9月21日 第二次長州征伐勅許。戦費のため年貢増税
◎9月27日 横須賀製鉄所鍬入式
慶應2年(1866)40歳
・1月21日 薩長連合成立
◎4月 兵庫商社創立の建議書承認。株式会社組織をつくる。
・6月7日 第二次長州征伐始ま。この頃、一揆頻発。
・7月21日 将軍家茂急死 
◎7月27日 横須賀製鉄所内に教育施設設立を許可。主として、フランス語を教える。
◎8月4日 クーレーと600万ドルの借款契約締結
◎8月11日 海軍奉行並兼任
◎9月25日 小栗上野介忠順の名でフランスに600万ドルの借金申込み
・9月1日 勝、長州藩との調停工作。大政奉還をもらす?
◎9月30日 フランスからシャノワン、ブリューネら教官として来日
◎11月19日 横浜に陸軍伝習所開設。歩、騎、砲三兵士官の養成を決議
・11月19日 大名会議、次期将軍に推薦
・12月5日 徳川慶喜、正二位・大納言・征夷大将軍・右近衛大将叙任
・12月25日 孝明天皇逝去
慶応3年(1867)41歳
◎1月13日 フランス軍事顧問団横浜着
・3月28日 将軍、イギリス、フランス、オランダ三国代表に謁見。兵庫開港を約束
・4月1日 将軍、アメリカ代表に謁見
◎5月 江戸、滝野川に大火薬製造所計画起工
・5月24日 朝廷、長州藩の寛大な処分と兵庫開港承認
◎6月 大阪商人二十二人に兵庫商社設立呼びかけ
   横浜陸軍伝習所を江戸の講武所に移転
・8月 栗本瀬兵衛、駐仏公使としてフランスの状況視察
◎8月13日 三野村利左衛門(三井組)来着
◎9月 幕府徳川家直参の兵賦金制度布告
・10月13日「討幕の密勅」が薩摩藩主父子に、翌14日長州藩主に下る
・10月14日 徳川慶喜、大政奉還を上奏
・10月15日 大政奉還許可。徳川家中心の郡県制度を構想
・11月15日 坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺
・12月9日 王政復古の大号令発布
【幕府や摂政、関白といったものが廃止され、総裁・議定・参与の三職を設置し、国政を運営するというものでした。幕府に変わる新政府の発足】
◎12月 陸軍奉行並兼任。幕府の軍事と財政の一切の権限は小栗の手に握られた。
・12月 パリ万国博覧会 日本館出展 一橋昭武幕府代表
・12月 薩摩も琉球国として切子ガラスなど出品
◎この年、貿易、金融、経済、軍事と多方面に活躍
 軍事
  ①徳川軍の近代化、②陸海軍の強化拡充、③造船所、工廠、製鉄所などの建設、④幕府ならびに大名家の再編成
・益満休之助、御用党を組織。江戸撹乱。西郷指示。
   伊牟田尚平、相良総三、落合直亮(なおあき)
◎12月25日 江戸薩摩藩邸の焼討事件
 老中・稲葉正邦は庄内藩酒井家に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる。益満休之助を捕縛。『小栗日記』に、捕縛した御用党の一味が「江戸に火をつけて擾乱したのは御用党である」、と白状したことが記されている。
慶応4年(1868)
明治元年
42歳
・1月3日 一発の砲声が鳥羽方面に響きわたり、「鳥羽・伏見の戦い」戊辰戦争始まる。
・1月7日 徳川慶喜追討令
・1月10日 新政府、鳥羽伏見戦の朝敵処分発布(前将軍、老中、大名)
・1月12日 江戸城大評定会議開始
◎1月12日 江戸城大会議で主戦論を展開・優勢。
勝海舟・大久保一翁の説得により、慶喜、恭順を決意
◎1月15日 江戸城芙蓉の間で酒井雅楽守から奉行罷免
・1月23日 徳川家組織改編 
    陸軍総裁 勝安房守 副総裁 藤沢志摩守
◎1月17日 大鳥圭介来着
◎1月28日 引退帰農の願認可
・2月 新政府、東征大総督府設置
・2月8日 松平容保、江戸城登城禁止
・2月12日 慶喜、上野東叡山寛永寺にて謹慎開始
◎2月14日 古屋作左衛門来訪。三野村利左衛門来訪
◎2月28日 神田駿河台の屋敷出立。大宮の普門院を経由して桶川宿泊
◎2月29日 深谷宿泊。渋谷栄一出身地。
◎2月30日 高崎宿泊
◎3月1日 権田村東善寺到着
◎3月2日 暴徒来襲の通報
・3月3日 赤報隊相楽総三、下諏訪で処刑
・3月6日 東山道総督府、上野国坂本宿入宿
・3月14日 五箇条の御誓文発布
◎3月4日 暴徒来襲、家臣・村民約百名で撃退
・3月9日 山岡鉄太郎・西郷会談
・3月13、14日 勝・西郷会談、江戸城無血開城
・3月14日 古屋作左衛門指揮の衝鋒隊が五十里駅に至る
・3月15日 新政府軍、江戸城総攻撃を予定
◎4月10日 村内観音山に居宅建設開始
・4月11日 江戸城開城、大鳥圭介ら旧幕府軍江戸脱走
◎4月22日 東山道軍鎮撫総督、小栗上野介追討令。
◎閏4月1日 高崎、吉井、安中三藩による上野介尋問
◎閏4月4日 豊永寛一郎、原保太郎ら東善寺急襲、捕縛
◎閏4月6日 烏川の水沼河原で上野介、荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺大三郎斬殺
◎閏4月7日 養子又一、用人塚本真彦、高崎にて斬殺
・5月3日 奥羽越列藩同盟成立
・5月15日 上野の彰義隊を官軍が総攻撃。益満休之助撃たれる。
◎6月14日 妻道子、会津南原病院で国子出産
・7月17日 江戸を東京に改称

明治元年
・9月8日 明治に改元(一世一元の制を定める)
・9月22日 会津藩降伏、若松城を開城。
・12月15日 旧幕府軍、蝦夷地占領、榎本武揚を総裁に独立政権樹立
明治2年(1869)・3月28日 東京遷都
・5月18日 五稜郭開城、箱館政府降伏する。
・6月17日 版籍奉還(薩長土肥は1月23日に上奏)、公家・大名を華族とする。
・9月4日 大村益次郎、刺客に遭い重傷を負う(11月5日死去)
明治4年(1871)・2月8日 横須賀製鉄所 第一号ドック完成。
  入渠試験:有栖川宮立会い、西郷、勝、大隈出席?
・4月 横須賀造船所に改名
・閏4月1日 明治政府移管
【五十万ドルの未払い金。大隈らの金策でイギリス公使パークスの口添えでオリエンタルバンクから借り入れ】
その後
     
・明治9年6月 国産第一号軍艦 清輝竣工。竣工式には明治天皇出席
【長さ59m、スクリュー推進式443馬力、882トン、クルップ砲五門搭載】
・明治10年1月 ヴェルニー送別会。浜離宮内の迎賓館。太政大臣三条実美、海軍省関係者出席。
・明治10年 ヴェルニーに勲二等重光章贈呈
・明治36年11月 横須賀海軍工廠と改名
・明治37年2月 日本海海戦
◎明治37年10月 東郷元帥、小栗国子・貞雄・又一を招待し謝礼。東郷元帥が送った額「仁義礼智信」(東善寺保管)
・大正4年 製鉄所設立五十周年記念式典。記念碑が建てられ、復権。
◎昭和7年 追悼碑建立。
    碑文「偉人小栗上野介、罪なくして此所に斬らる」
     蜷川新(京都大学教授)撰文・揮毫
    (小栗上野介の甥、道子の妹はつ子の子。播州林田藩 蜷川家)

Comments are closed.