小栗上野介秘話

小栗椿の由来

 小栗上野介の墓は東善寺の境内にある。その右隣には、まるで寄り添うように一本の椿の木がある。その椿を称して小栗椿という。

 詩人・画家としても知られる星野富弘は、

 いま私がいちばん描きたいのは東善寺の小栗椿です。(小栗上野介が)認められず、ほめられずに生涯を終えたところにロマンを感じます

と平成15年(2003)の元旦の上毛新聞で語っている(Webサイト『東善寺』東善寺花だより)。

 その花だよりに、【「小栗椿」:黒椿「崑崙黒こんろんこく」】と題して、由来が次のように記されている。

 上野介父子が西軍に殺されたあと、江戸から倉賀野河岸(かし)(高崎市)に着いた引越荷物のなかに、庭木類がありました。荷の引き取り手小栗上野介はすでに殺されているので、荷物が競売にかけられ「鉢植えの椿」と「シャクヤク」を小栗家旧領地下斉田村(高崎市)の名主田口十七蔵(たぐちとなぞう)が買い取りました。
 明治初年に権田の村人が小栗父子家臣の墓を作ると、連絡を受けてお参りにやってきた田口は、持参した鉢植えの椿とシャクヤクを墓のそばに植えてゆきました。
 椿はそのまま墓のそばで毎年花を咲かせます。百数十年を経ているが、寒い土地なので幹はそれほど太くならない。毎年春になると、墓のわきで、黒味を帯びた八重の花がびっしりと咲く。「崑崙黒・こんろんこく」という黒椿の名花です。

 上野介は、慶応4年(1868年)1月15日、江戸城にて勝手掛老中松平康英から呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて老中酒井忠惇、若年寄稲葉重正から御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されている。そして、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への帰農土着願書」を提出した(『ウィキペディア』小栗上野介)。
 その時、知行地返納願書も添えていた、といわれる。翌日、知行地返納はお構いなし、帰農土着願書は許可の連絡を受けている。その後、神田駿河台の小栗邸を出立したのは翌2月28日早朝のことである。

 お役御免の後半月ほど、慶喜の対応状況を見定めながら訪問してくる幕臣などに会ったりしている。

 その状況から察すると、1月30日以降、約一ヶ月掛けて権田村への荷造りをしたのであろう。荷車で持ち運ぶ当面必要なものと川船で運ぶものとの仕分けをしたものと思われる。小栗邸は神田川に、ほど近い所にあったので、神田川を下って東京湾に出て、千葉沖を銚子まで行き、利根川、烏川と遡り継ぎ、倉賀野河岸に到着したものであろうか。それとも、東京湾から江戸川経由で利根川に出たのであろうか。
 いずれにしても、倉賀野河岸に到着したときには、主はすでにこの世にいない。そのため、荷物は新政府軍の手で処分、すなわち競売されたのであろう。上野介の知行地下斉田村の名主田口十七蔵が買い取ったものの中に「鉢植えの椿」と「シャクヤク」があり、上野介の墓ができると、それらを持参して墓のそばに植えていったのだという。

 鉢植えの椿やシャクヤクは庭にあったのであろうか。そして、それらはどこから仕入れたのであろうか。
 妻の道子の実家、播州林田藩の下屋敷は染井村にあった。染井村は桜の銘木「ソメイヨシノ」の発祥の地といわれるが、幕末には染井から駒込にかけては大植物センターがあり訪れた外国人を驚かせたという話もある。そういう状況を考えてみると、椿やシャクヤクに、上野介や道子のロマンも感じられる。
 しかし、上野介は隅田川に花見に行ったとき議論に熱中し花見をせず風流には関心がないのではないかともいわれている。そう考えると、椿は道子の遺愛のものであったのであろうか。その遺愛の椿が今も上野介の墓に寄り添っている、ということには前者以上のロマンが感じられる。

 下記の地図は、国土地理院所蔵の安政2年(1855)作の古地図コレクションの中の上野国全図から切り抜いた上野国西部の断片図である。

安政2年の上野国西部地図
安政2年の上野国西部地図【Webサイト(『古地図コレクション』上野国全図)より切り抜き】 ①下斉田村、②与六分村、③森村、④小林村、⑤権田村
⑥岩鼻代官所、⑦倉賀野宿、⑧本庄宿、⑩吉井宿

 ①~⑤は上野の国における幕末の小栗家の知行地である。⑥は上野国の代官所であり、勘定奉行の管轄である。不思議なことには、下斉田村(①)、与六分村(②)、森村(③)、小林村(④)は、岩鼻代官所の近くに散在する。その散在も意図が感じられるような配置である。
 岩鼻代官所は中山道(東山道)沿いに位置し、前述の下斉田村はその東北に位置する。そして、その隣には与六分村(よろくぶ、②、現在は玉村町)がある。(現在の配置関係は逆転している)岩鼻代官所の東南には、遣米使節後に加増された森村(③)と小林村(④、現在はともに藤岡市)が存在する。
 
 因みに、権田村(⑤)は草津街道沿いの村であり、その西端で右折し、善光寺道が左折(南北の方向に分岐)する。
 草津は、現在と比べて交通は不便にもかかわらず、江戸時代に湯治客で賑わいは年間1万人を超える数を記録している。近世を通じて60軒の湯宿があり、幕末には「草津千軒江戸構え」といわれるほど栄えていた(『ウィキペディア』草津)、といわれる。十返舎一九も草津を2度訪れており、この道を通ったといわれている。
 また、横須賀市が建築し、その後倉渕町に寄贈された「はまゆう山荘」は善光寺道沿いにある。この道も、江戸時代末には「一生に一度は善光寺詣り」(『ウィキペディア』善光寺)、といわれるようになっている。
 いずれにしても、権田村は交通上重要であったのであろうと思われる。
 
 倉賀野河岸は、倉賀野宿(⑦)の南、烏川沿いに位置する。

小栗上野介の墓と寄り添う小栗椿
小栗上野介の墓と寄り添う小栗椿

 「東善寺花だより」によると、知行地与六分村のあった玉村町の佐藤安代は、次の句を残している。この句も道子の遺愛と考えると輝きを増してくるように思われる。

 黒椿あるじ逝きしも添いており
 後の世も愛でし椿と共にあり

 一方、シャクヤクについては、上野介の胸像ができたときにその近くに植え替えられたようである。


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