3.『東京下谷 根岸及近傍図』における鶯谷に基づく由来説
江戸時代のよく知られた地誌には記されることはなかったが、鶯谷という鶯の名所が、鶯谷駅の開業当時の上野桜木町に存在していたことを最近知った。しかし、これを駅名の由来とする説についてはまだ見たことはない。
1)根岸鶯谷
『東京下谷 根岸及近傍図』は、根岸倶楽部という地元のクラブの立案で、国語辞書『言海』の開発者として知られる大槻文彦によって、「根岸の道しるべ」として作成され、刊行された地図である。
地図には、鶯谷の項が設けられ次のように解説されている。
文政図では徳川家霊屋下の地を「ウグヒスダニ」と記している。元禄年間(1688-1704)の中頃、上野の宮が鶯を多くこの地にお放しになられたと伝えられている。もともと霊屋の下は火除地で、一面に樹木,笹が生い茂り、池には大蛇が住んでいるなどといわれた。維新後(1879年)に、上野から大猷公廟跡(たいゆうこうびょうあと)を貫いて坂(新坂、しんざか)を通し、坂下はことごとく人家となったが、今でも徳川家の所有地である。
また地図上にも「志んざかした(新坂下)」のあたりに鶯谷と表記されている。地名というよりはその地域の通称であったものと推定される。文政図とは、月崖(げつがい)という人が文政3年(1820)に作成した地図、といわれる。
上野の宮とは、輪王寺門跡を指し、寛永寺貫首を兼ねていた公弁法親王のことである。公弁法親王は、前述のように京鶯の放鳥の故事で知られる人であるが、この鶯谷に放鶯したのか否かは明らかではない。
しかし、直接放鶯しなくとも、鶯は縄張りをもつ鳥であり、広範囲に飛散されると思われるので、根岸の里などから飛んできて巣をかけたと思われる。この鶯谷の付近は当時は火除け地であり、『根岸及近傍図』の鶯谷の項には「樹木・笹生い茂り」と記されているので、鶯はそのような木や笹に巣作りをしたのであろう。
この鶯谷とある地域は、当時の地図上の東京市下谷区上野桜木町1~6番地付近であり、昭和18年(1943)に東京都制に移行したとき台東区根岸に編入され、現在の根岸1丁目1番西側及び2,3番の大部分とされる。他所の鶯谷と区別するために根岸鶯谷と呼ぶことにする。
根岸鶯谷は、江戸時代には寛永寺の寺領で、特に地名はなく、明治10年(1877)に桜木町と称したいと寛永寺側より要望があり命名された(『東京下谷 根岸及近傍図』)、といわれる。『下町まちしるべ』の旧上野桜木町の項には、「桜の木が多くあったことに由来する(『下町まちしるべ』旧上野桜木町)」と記されているから、「桜木町」という町名の提案があったのであろう。
しかし、その地形は、厳有院霊廟などがある徳川家霊屋の下、すなわち上野台の東北の崖下の平地であり、谷と呼ばれる形状ではない。何故鶯谷と呼ばれたのであろうか。
『広辞苑』を引くと、「谷」には、①山あいの細くくぼんだ所と、②きわまる,ゆきづまる、という2つの意味がある。①は通常谷といわれている地形である。根岸鶯谷は、②に該当する「ゆきづまり」の形状と推定される。それ故に谷というのであろう。Webサイトで地形と地名の関係に関する資料を見ると、②の形状について谷といっているものが見られる。
鶯谷と呼ばれた土地の大部分は、今ではJR線の線路用地として使われていると思われる。
また、根岸鶯谷の付近で鶯谷としての痕跡を探すと、明治11年(1879年)に敷設された新坂(しんざか)は『東京下谷 根岸及近傍図』大猷公廟跡の項によれば一名鶯坂と呼ばれており、またその近くには鶯谷公園が設置されていることがわかる。
また、正岡子規は、明治30年(1898年)に、次の俳句を残している。
片側は鶯谷の薄哉
新阪を下りて根岸の柳かな
霊廟直下の一部分は薄が生え、その反対側は線路だったのであろう。
2)ほふ法華経の落首について
化政文化と呼ばれた江戸文化の絶頂期に、第11代将軍であった徳川家斉(いえなり)は天保12年(1841)に亡くなっているが、そのとき次の落首があった。
芝枯れて上野はほんに花盛り
鶯谷にほふ法華経の聲 『浮世の有様』「天保11,12年雑記」
徳川将軍家の菩提寺として、芝の増上寺と上野の寛永寺とがある。家斉は増上寺に埋葬される予定であったが、その慣例を破って寛永寺に埋葬されたことから詠まれたもの、といわれる。
『浮世の有様』巻之九「天保11,12年雑記」に、大御所様薨御に付き種々の洒落話として、次の記事が記されている。
昔より大樹薨じ給ふときは、御一代は上野御一代は芝へ、代るがわる御尊骸の納まれるを定例にして、此度は芝へ納まれる順番に當れる故、その積りにて、芝に於いては何かと心構せし處、思寄らず御老中水野越前守殿計らひとして、御尊骸上野へ入らせらるる様になりぬ。
此事御先例に背けることなる故、然るべからずとて、脇坂中務大輔殿之を拒み留められしが、越州之を聞き入れずして、上野へ入らせらるる様になりしかば、脇坂には其言用ひられざる上に、不首尾なる様子なれば、之を憤り切腹せられし抔(など)、さまざまの風説あるにぞ。夫につき下様の口さがなくて、落咄・落首・口合・悪口等数限りなく云ひ流行す。此事江戸よりして諸国へ書き記して、事々しく送りぬる故、天下一統に之を云ひ觸らす。
これにより、老中首座の水野越前守忠邦が老中脇坂中務大輔安董(やすただ)の諫めを押し切って上野に埋葬させたことがわかる。
脇坂中務大輔は、播磨国龍野藩の藩主で外様大名であったが、寺社奉行に取り立てられ、その功績から譜代大名に昇格し、さらに老中に昇っている。
老中在職中の天保12年(1841)閏1月23日に突然死去した(『ウィキペディア』脇坂安董)、といわれる。因みに、家斉の死没は同月7日であるので、風説通りと思われる。あるいは、老中のことなのではっきりと書くことを憚られ、風説と言葉を濁したのかもしれない。
前述の落首はその記事の中に記されているものである。また落首中の「鶯谷」については、長く隣の谷中鶯谷を指すものと考えていたが、根岸鶯谷の存在を知った今となっては、しかもそれが家斉が合祀された厳有院(げんゆういん)霊廟の下という場所を考え合わせると、落首の「鶯谷」は根岸鶯谷を示していると考えざるを得ない。
なお、厳有院霊廟は第4代将軍徳川家綱の霊廟で、鶯谷駅の南口に近い。前述の航空写真を参照していただきたい。
また、「鶯谷にほふ法華経の聲」については、「根岸鶯谷から聞こえてくる谷の鶯の鳴き声」を家斉供養の法華経の読経の声と見立てるとともに「寛永寺から聞こえてくる家斉供養の法華経の読経の声」が重ねられていると思われる。
家斉の死去した日は西暦では2月27日である。早鳴きといわれる、根岸鶯谷の谷の鶯は鳴いていたと考えてもよいであろう。また、寛永寺は天台宗で、天台宗は法華経を根本経典とするため(『ウィキペディア』天台宗)、 そこから聞こえてくる読経の声は鶯の鳴き声と見立てられる。
3)鶯谷駅の命名について
ところで、『東京下谷 根岸及近傍図』の初版が発行されたのは明治34年(1901)である。鶯谷駅開業の11年前のことである。
出版元は根岸倶楽部である。その倶楽部は、森田思軒を中心に、饗庭篁村(あえばこうそん)、岡倉天心、須藤南翠、高橋大華、森鴎外、幸堂得知、幸田露伴などをメンバーとして明治23~24年頃にできた根岸に住む文人たちの集まりの総称(『東京下谷 根岸及近傍図』)、といわれる。その倶楽部は現存している。
そのような状況や鶯谷駅が根岸鶯谷の跡地にできたという事情などを考え合わせると、鶯谷駅の名称は、谷中鶯谷に由来するというよりも、根岸鶯谷に由来していると考えるのが至当と思われる。
子規が晩年に過ごしたのは、根岸町鶯横丁の子規庵である。子規はホトトギスの異名のひとつであり、結核で血を吐く自分を、喉の赤いホトトギスに喩えて子規と名付けたといわれる。ホトトギス(子規)は鶯に托卵、すなわち孵化・子育てをさせることで知られているが、鶯横丁の子規庵という関係はその托卵の関係の比喩なのであろうか、それを彷彿とさせる。
子規は、鉄道との関係について、次の句を詠んでいる。
鶯の遠のいて鳴く汽車の音 (子規 明治25年)
また、『墨汁一滴』には、「鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ」という一節を残している。高い声の鶯は汽車の音に遠退かされ、その巣は響きに揺り落される。それは根岸鶯谷という名所が消えて行くことを暗示しているようでもある。
『墨汁一滴』には、「風致という風致は次第に失せて唯細路のくねりゝつるぞ昔のままでいる」と、大槻博士がいっていると記されている。
そう考えると、冒頭の東京という中心地と幽谷を思わせる鶯谷との取り合わせの妙にも妙に合点がいく。