2.鶯谷駅南口の説明板「鶯谷の由来」に基づく由来説
鶯谷駅南口の改札口の手前の右手に、「鶯谷の由来」を記した、年季の入った説明板がある。
説明板の背景には上野の山が描かれている。東北麓の根岸・日暮里方面から眺めたものである。この辺りは都会の喧騒から隔離され、遠くには日光や筑波山が見渡される、風光明媚な土地であり、根岸の里とか初音の里とか呼ばれ、文人墨客が居住していた、と云われている優雅な土地柄であった。
説明板の右端に「梅に鶯」の絵が見られる。その鶯の頭部の先をたどると赤い塔が見える。幸田露伴の小説のモデルとなった谷中の五重塔である。その右隣にある白い寺院風の建物は天王寺、旧名感応寺である。
五重塔の左下の黒ずんだあたりは、後述する公弁法親王など、寛永寺の住職が代々休息する別殿、御隠殿(ごいんでん)である。御隠殿跡の説明板によると、敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園があり、ことにここから眺める月は美しかったといわれる。また、月見の宴が行われていた。上野戦争のとき、焼失している。
中央下に杉のような木が2本見えるが、その左側は根岸の梅屋敷の場所であり、根岸における鶯の鳴き合わせの発祥の地である。梅屋敷には嘉永元年(1848)に「初音里鴬之記」という石碑が建立され、今もその跡地に建っている。
鶯谷駅の北口は梅屋敷の奥に位置する。
さて肝心の「鶯谷の由来」についてであるが、説明板には、次のように記されている。
鶯谷といえば人々は直ちに鶯谷駅のあるそれを想うであろうが、これは明治以後につけられた名称で、江戸時代の鶯谷として知られているのはここではなく、今の谷中初音町にあって鶯谷といったのである。
初音町というのは明治2年(1869)に出来た町名であるが、その起りは前から初音町三丁目にある霊梅院附近の森を「初音の森」といったから初音の森にもとづいているのである。初音の森といわれるようになったのは此の附近に鶯が沢山いたので、鶯にちなんでつけられたのである。
附近には霊梅院、龍泉寺、海蔵院、長明寺、上三崎(かみさんさき)北町の本立寺、加納院、観音寺の七ヶ寺が建ち並んでいて、この下の谷を「鶯谷」といったので、その名は鶯の名所であったからである。
それは元禄の頃、東叡山輪王寺の宮、即ち上野の宮様が京鶯を数多くここに放されたので、年の寒暖によっておそい早いはあるが立春二十日頃から初音を発した。関東の諸鳥の囀りにみな訛りがあるけれど、当所の鶯は皆上方の卵なので東国の訛りがなく音色にすぐれていたという。
(『江戸砂子』より)
この説明板が作成された時期については不明である。鶯谷駅が開業された明治45年(1912)以降、谷中初音町を「今の」と言っていることから谷中〇丁目に町名変更される昭和41年(1966)までの間に作成されたものと推定される。
説明板には、次の事柄が記されている。
- 鶯谷といえば鶯谷駅を想うであろうが、これは明治以後につけられた名称である。
- 江戸時代に鶯谷として知られていた場所は今の谷中初音町にあった。(この鶯谷は、「谷中鶯谷」と通称されていた)
- 初音町は明治2年(1869)にできたもので、その起こりは以前から初音町三丁目にある霊梅院附近の森を「初音の森」といっていたことから初音の森にもとづいている。今も防災広場「初音の森」としてその名前は残っている。
- 霊梅院、龍泉寺、海蔵院、長明寺、上三崎(かみさんさき)北町の本立寺、加納院、観音寺の七ヶ寺が建ち並んでいる、下の谷を「鶯谷」といい、鶯の名所であったから名付けられた。
- 東叡山輪王寺の宮、即ち上野の宮様、具体的には後述する公弁法親王が京鶯を数多くここに放されたので、年の寒暖によって遅い早いはあるが立春二十日頃から初音を発し鶯の名所となった。(これは公弁法親王の京鶯の放鳥の故事である)
鶯谷駅名の由来については明記されていない。2や4は単なる谷中鶯谷の場所に関する紹介である。しかし、谷中鶯谷の由来の説明板がわざわざ鶯谷駅の構内にあること、事柄1と2が連続して配置されていることを考えると、鶯谷駅の駅名は谷中鶯谷という鶯の名所から名付けられたことと推定される。
まずは、これを俎上に置いて鶯谷駅名の由来について考えてみたい。
1)谷中初音町について
初音は、鶯・杜鵑(ほととぎす)などのその年の初めての鳴き声,初声(『広辞苑』)、である。初音は、初子(はつね)から生まれた言葉といわれる。
松の上に鳴く鶯の声をこそ
初音の日とはいふへかりけれ 宮内『拾遺和歌集』
この和歌には、「皇太后藤原穏子(おんし)に仕えていた女房の宮内(くない)という者がまだ童女の頃、小松を根引きして長寿を祝う正月初子の日に、醍醐天皇の御前で五葉松に止まっている鶯が鳴いたのを詠まれた和歌」という長い詞書がある。詞書と和歌とを照合すると、初子から初音が生まれた由来が明らかになる。また、「梅に鶯」ならぬ「松に鶯」の誕生でもある。
この和歌とその状況は、その後『源氏物語』初音の巻に継承される。初子の元旦に、実母の明石の御方が五葉の松に鶯を止まらせた作り物とともに、次の和歌を紫の上に養女として養育されている明石の姫君に贈る。
年月を松にひかれて経(ふ)る人に
今日鶯の初音聞かせよ 明石の御方
鶯は明石の姫君の比喩(隠喩)である。松に引かれて経る人とは、初子の日の小松引きの行事に掛けて経る人を導いているが、経(ふ)る人は古人、すなわち年老いた自分、明石の御方を指している。そして、次の和歌は明石の姫君からの返歌である。言葉遣いに子供らしさが見られると、『源氏物語』には記されている。
ひき別れ年は経れども鶯の
巣立ちし松の根を忘れめや 明石の姫君
そして、さらに、3代将軍徳川家光の娘「千代姫」の婚礼調度に継承される。姫が尾張徳川家2代光友に嫁ぐときに持参した「初音の調度」には、明石の御方の和歌の歌意を表した蒔絵が使われており、国宝として残されている(Webサイト『徳川美術館』特別公開「国宝 初音の調度」)。
ところで、谷中初音町は、説明板にも記載されているように、「初音の森」にちなみ、鶯の初音に由来した名前である。ただし、「四町目にある鶯谷より起これるなり」(『東京府志料』)という説も存在する。「初音の森」とか「鶯谷」という名所ということもさることながら、「ああ、やっと春になった」という、それらの場所から聞こえてくる、待望久しい美声の初音に感嘆したということであろう。
谷中初音町は1丁目から4丁目まであった。明治2年(1869)から明治4年(1871)の間に制定され、昭和41年(1966)に再編成され、現在の台東区谷中3、5~7丁目に町名の変更が行われている(『ウィキペディア』「台東区の町名」)。
因みに、岡倉天心が開いた東京美術学校は4丁目にあり、その跡地は岡倉天心記念公園となっている(台東区下谷まちしるべ『旧谷中初音町四丁目』)。
谷中については、江戸幕府によって編纂された地誌『御府内備考』谷中の項に、「江戸志に云ふ。谷中は上野の山と駒込の谷なるなれば谷中というよし」とあり、『ウィキペディア』谷中(台東区)の項には、「上野台と本郷台という台地の谷間に位置することから名付けられた」、とある。また、その谷間は根津谷と呼ばれ、かって石神井川が流れ込んでいたときに刻まれた流路跡(『ウィキペディア』石神井川)、といわれる。
谷中は、『ウィキペディア』谷中 (台東区)の項によると、特に寛永寺の影響を受けて発展し数度の再編が行われている。その再編の歴史は次の通りである。
- 谷中は古くは武蔵国豊島郡谷中村であった。
- 江戸時代、上野に寛永寺が建立されると、谷中にもその子院が次々と建てられた。また、幕府の政策により慶安年間(1648~1651)に神田付近から多くの寺院が移転し、さらに明暦3年(1657)の大火により焼失した寺院が移転した。
こうして、寺の増加に伴い参詣客が増え、徐々に町屋も形成され、江戸の庶民の行楽地として発展したといわれる。 - 元禄期に崖下の百姓地を谷中本村(現在の荒川区東日暮里5・6丁目と西日暮里2丁目の各一部)として分離。崖上、すなわち、上野台の台地上の寺町が谷中村となるが、次第に市街地化され一部は谷中町、谷中三崎町(やなかさんさきちょう)となる。
- 明治2年(1869)から明治5年(1872)にかけて、谷中清水町・谷中坂町・谷中初音町1~4丁目・谷中茶屋町・谷中真島町・谷中上三崎南町・谷中上三崎北町の各町が成立する。
- 明治11年(1878)、これら谷中各町は上野とともに下谷区に編入される。明治22年(1889)、東京市の誕生とともに東京市に編入されるが、その時点では、まだ谷中村も残存していた。明治24年(1891)に谷中村は分散され谷中各町に編入される。
このとき、寛永寺に次ぐ規模をほこる天王寺のある谷中天王寺町も成立する。天王寺の旧名は感応寺であり、本は日蓮宗であったが天台宗に宗派替えさせられたときに詠まれたとみられる次の川柳がある。
鶯は昔のままの感応寺
宗派替えしても聞こえてくる読経の声は変わらなかったのであろう。両派とも、法華経を根本経典としているのである。 - 昭和22年(1947)に23区制への移行に伴い台東区(上野台という台地の東の意)となる。昭和41年(1966)、住居表示実施に伴い谷中各町が整理統合されて現行の谷中1丁目から7丁目となる。谷中清水町は池之端3・4丁目に、谷中天王寺町の南端一部が上野桜木2丁目にそれぞれ編入される。
2)谷中初音町にあった鶯の名所について
南口の説明板に紹介されているように、谷中初音町には、「初音の森」と「谷中鶯谷」という、2つの鶯の名所が存在した。
- 「初音の森」は、江戸時代の享保17年(1732)に刊行された『江戸砂子温故名跡志』に、霊幡院(霊梅院)の境内にあったことが記されており、霊梅院の境内を含む付近一帯で、上野台の北西の台地上に存在した森と思われる。
下図は、国会図書館ディジタルコレクション所蔵の『江戸切絵図』の断片図である。天王寺、古くは感応寺と呼ばれた寺院がその中央部に見られるが、その西を南北に走る上野台の尾根道が黄色で示されている。通称、初音の道と呼ばれている(Webサイト『谷中「初音の道」の歴史』)。 - 「谷中鶯谷」は、明和9年(1772)に刊行された地誌『再校江戸砂子温故名跡志』の㊈谷中・根津・三崎・日暮里・三河島の項に初見されるが、前述の地誌『御府内備考』の続編で、『御府内寺社備考』とも呼ばれる資料に、霊梅院の「境外に鶯谷の名あり」と記されているので霊梅院の近くに谷があったことがうかがえる。
また『御府内備考』には、「七面坂より南の方、御切手同心組屋鋪の間の谷なり、此谷へ下る所を中坂といふ」との記述が見られる。『江戸切絵図』の天王寺の近くに吉祥院と記されたあたりから北西の宗林寺と記されたあたりまで下る「七面坂」と記された黄色の坂道がある。その南側に展開される、黄色で囲まれた区画のあたりが谷中鶯谷と推定される。上野台の台地の北西端から根津谷に向って下る坂の途中にある谷で、その鶯谷へ下る中坂と呼ばれる坂がある。
前述の御切手同心組屋鋪は、『江戸切絵図』によると、宗林寺の南に位置し七面坂の坂下になる。『国史大辞典』によると、切手番とは裏門切手番の略称で、切手番所に詰め、江戸城本丸の裏門(大奥に通じる切手門)を警護し、そこを出入りする大奥女中の手形を改める役職。御切手同心組屋鋪はその役人たちの住居であろう。谷中には谷中切手町といわれた地域があった。
霊梅院は上野台の台地上に存在するが、その境内が初音の森の一部であり、境外に谷中鶯谷が存在していたということは、上野台の台地上から坂に掛けて、初音の森と谷中鶯谷が続いて存在していたことを示している。
谷中鶯谷は、谷中の名前の由来に関係する根津谷という深い谷ではなく、根津谷に向かう坂の途中にできた比較的浅い谷、しかも上野台の台地の頂上に近いところにある谷という地形上の特徴が見られる。
前述の『日本国語大辞典』において、鶯谷(おうこく)と発音する場合、その谷は幽谷を示す深い谷であるが、谷中鶯谷はそれには該当しないことがわかる。
また、人禽共生の世界が展開されていたと思われる。それ故に、人々により親しまれたのであろう。
3)谷中初音町が鶯の名所となった由来について
徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院であるが、寛永寺は、江戸城の艮(うしとら、東北)の鬼門を守護する寺院として京の都を守る比叡山にならい、「東の比叡山」の意味から東叡山と号し、寛永2年(1625)に天海によって創建された寺院(『ウィキペディア』寛永寺)、である。
寛永寺の貫首は3代目から法親王が務めることになる。第5代の貫首は公弁(こうべん)法親王であった。寛文9年(1669)に、後西(ごさい)天皇の第6皇子として生まれ、元禄3年(1690)に輪王寺門跡に就任し関東に下向する。その後、日光山門跡、比叡山延暦寺天台座主を兼任している(『ウィキペディア』公弁法親王)。輪王寺門跡は、輪王寺の宮、上野の宮とも呼ばれ、寛永寺貫首の称号とされた(『ウィキペディア』輪王寺)。
輪王寺の宮、公弁法親王の京鶯の放鳥の故事は、大槻文彦の『根岸及近傍図』の根岸名物「鶯」の項に、次のように記されている。
元禄の頃(1688-1704)、時の上野の宮第三世 公弁法親王が「関東の鶯には訛りがある」とお思いになられて、上方から数百羽の雛をとりよせ根岸の地(現在の台東区根岸)に放ったことから、この土地の鶯の声は訛って聞こえないという。それから鶯の名所となり、初音の里とさえもいわれた。鶯はこの地にある竹林に巣をかける。他所の鶯の脚は黒いが、根岸産のものの脚は灰色で赤みがあり、その道の人は見分けられるという。
また『ウィキペディア』公弁法親王の項によると、尾形乾山(けんざん、尾形光琳の弟)に命じて京都から美声で“早鳴き”の鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥した、といわれる。このため根岸の鶯は美しい声で鳴くようになり、江戸府内でも最初に鳴き出す“初音の里”として名所になった、といわれる。
これらの記述から、かなり大量の京鶯が放鳥されたと思われる。また、雅な鳴き声、麗しい鳴き声であったのであろう。『江戸遊覧花暦』には、臣女という女性の次の俳諧が記されている。
舌かろし京うくひすの御所言葉 臣女
ところで、谷中初音町の鶯であるが、これは、『江戸砂子温故名跡志』によると、根岸の里に放鶯したときに放鶯されたといわれている。
4)何故隣町の谷中初音町にあった鶯谷の名前を付けたのか
鶯谷駅の南口の説明版から、鶯谷の駅名は谷中鶯谷の名所に由来して名付けられたことが推定されるが、その典拠は不明である。引用されている『江戸砂子』は江戸時代の書籍であり、その典拠にはならない。
駅名の名付けについては、説明板に記されているように、公弁法親王の放鶯の故事が有名であったことや谷中鶯谷の名前が知られていたことなどが、動機になったと思われるが、それにしても、なぜ隣町の名所を使ったのかについては明らかではない。
その点ついて調査を進めてみると、台東区の「下谷まちしるべ」に、上野桜木町は、上野公園北側の寛永寺寺域と上野台の東北麓(現根岸1丁目1番西側及び2,3番の大部分)に二分され、後者は谷中村の飛び地であったと記されている。谷中初音町は前述のように谷中村から独立した町域であるので、振り返ってみると、もとは同じ谷中村に属していたというゆかりがあった、ということがわかる。
鶯谷駅のある土地は鶯の名所である谷中初音町とのゆかりがあり、その関係から名付けられたことが推定される。またその経緯からすると、「初音」、「鶯谷」のどちらでもよかったのではないだろうか。
まず「初音」であるが、これにすると、谷中初音町が隣町であり距離的に離れてしまい、違和感を抱かれる恐れがある。むしろ、「初音」を使うのならば日暮里駅の方が適しているが、地名の「日暮らしの里」から名付けられた日暮里駅は、鶯谷駅より先の明治38年(1905年、日本海海戦の年)に開業しているので、それは一層難しいということになるであろう。
また、電車が到着すると、昔は駅名がアナウンスされた。その声は、「はつねー、はつねー」である。その様子は、「はつねー、はつねー」という声が聞こえてきたので外に出てみれば鶯笛売りの声だったという江戸時代の小咄の光景に繋がり、誤解を招く恐れがある。
結局のところ、消去法によって、谷中鶯谷という鶯の名所に起因する名称ということになったのであろうか。
なお、鶯笛についてであるが、江戸時代前期から中期にかけての養禽家である根岸の松川伊助という人が自ら工夫して作り上げた笛で、子飼いの鶯に付け声をするのに使われ、また遊具として縁日で売られるようになった(『根岸及近傍図』)、といわれる。
なお、付け声とは、笛の音を聞かせて鶯の鳴き声を訓練する方法であり、鳴き合わせに使われる飼い鶯を養成していた、といわれる。付け声には、より優れた方法があった。鳴き合わせで優勝したような、優れた鳴き声の鶯を仮親としてその鳴き声を聞かせて訓練する方法である。