つれずれなるままに
暮春の川根温泉 温泉三昧の旅
川根温泉への旅は2度目である。前回は4年前の立春の直後。今回は、同じ春とはいえ、暮春(2019年4月22、23日)である。
宿は湯量が豊富でかけ流しの露天風呂付きのコテージ。食事は自炊である。メンバーは当会の有志6人。そのうち5人は前回体験者である。さて如何なる旅になるか。
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- 往路 ① 朝7時00分 長沢出発
旅の起点は横須賀市長沢。早朝、7時に自宅を出発したKS氏は武を経由してMA氏を拾い、馬堀りに行き、MK氏の車に乗り換えて予定通り7時40分にMK氏宅を出発。途中三春町でTI氏を拾い、一路横浜市金沢区海の公園駅南口駅前へ。そこで、AA氏、TK氏を拾い、全員が揃ったのが8時30分。
朝比奈ICから横横高速道に乗る。しかし、狩場手前で渋滞に巻き込まれ、町田ICから東名に乗る予定を急遽変更し、横浜新道、国道1号線経由で厚木に向い、東名に乗って清水港へ。
途中、御殿場付近の山々に白雲のように浮かぶ白いヤマザクラの咲く姿がときどき見られるものの、大方は濃くも薄くも緑なす暮春の風景である。 - 往路 ② 清水魚市場「河岸の市」
「新鮮で美味しい魚をもっと気軽に食してほしい」をモットーとする仲卸し業者たちの店が並ぶ中の一軒で、ちょっと贅沢に新鮮な魚の昼食。その後、隣の建屋に移動して、自炊用の魚介類や野菜を調達する。
- 往路 ① 朝7時00分 長沢出発
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- 往路 ③ 三保の松原
次に着いたところは、三保半島の東海大学 海洋学部の駐車場。キャンパス内を歩くがあいにく自然史博物館や海洋科学博物館は休館。海洋科学博物館の屋外の津波実験場を見学して海岸に出る。
『万葉集』にも詠われる三保の松原が広がる。
- 廬原(いほはら)の清見の崎の三保の浦の
ゆたけき見つつ物思ひもなし
田口益人(『万葉集』3-296)
歌川広重の『六十余州名所図会』の中の「駿河 三保の松原」を始めとする浮世絵に描かれ、その美しさから日本新三景(大沼、三保の松原、耶馬溪)、日本三大松原(三保の松原、虹の松原、気比の松原)のひとつとされ、国の名勝に指定されている(『ウィキペディア』三保の松原)。
また、世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成遺産のひとつとしても登録されている(『ウィキペディア』三保の松原)。三保半島は、安倍川から海へと流された土砂が太平洋の荒波に運ばれ、堆積されてできた半島である。1922年(大正11年)、名勝指定時には松の本数は9万3千本(一説には12万本)あったというが、2014年の「富士山の日」イベントで、松の本数を調査したところ、3万699本に減少。海岸浸食による砂浜の減少や病虫害による松枯れの影響が見られるという(『ウィキペディア』三保の松原)。
川根温泉へ向かう途中、スーパーに立ち寄り、米、飲料、調味料等を調達し、再び川根温泉に向かう。
- 廬原(いほはら)の清見の崎の三保の浦の
- 川根温泉コテージ
川根温泉に到着したのは、16時頃、ほぼ予定通りである。
コテージの敷地入り口のツツジは、満開に咲いて歓迎してくれる。駐車場脇にも、ピンクの桃の花が咲き乱れ、暮春の風情に彩りを添えて歓迎してくれた。
到着時には車は少なかったが、翌日出発時に見ると駐車場はかなり埋まっていたので来客数は多いと考えてよいのだろう。このあたりは日本3大銘茶のひとつ、川根茶の産地。山裾から広がる茶畑は大井川鉄道の線路脇まで延びる。また、家の周囲も茶畑に囲まれる。昭和20年頃の養蚕地帯の桑畑のイメージである。
川根茶は、江戸時代初期に租税として納められたという歴史をもつ茶である。線路を垣根一つで隔たれたところに建つコテージは、暮春の落ち着いた佇まいに溶け込んでいる。
コテージの右手は大井川。やや先に大井川鉄道の鉄橋が見える。笹間渡(ささまど)の渡しともいうらしい。
この路線にはSLも走ることからマニアには人気のスポットという。早朝、写真を撮りながら散歩していると、電車が近付いてきた。
この温泉は、湯量が豊富でかけ流しのコテージがある。我々のコテージも露天風呂はかけ流しであった。その露天風呂に木の芽の綿帽子でもあるのか、ひらひらと舞い降りてくる。量はそれほどでもないが尽きることもない。ほとんど見ることもない珍しい、風情のある光景にしばし見惚れる。
夕食は、炭火コンロで焼いた魚介類や野菜、それから鍋。手作りの味はまた格別である。
翌日、駐車場で荷物を積み終わると、別れを惜しむかのようにホーホケキョの鳴き声。その声に送られて復路の旅が始まった。
- 往路 ③ 三保の松原
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- 復路 ① 徳山のしだれ桜
駐車場を出て大井川の上流方面に向かい、駿河湾百景のひとつ、徳山の枝垂れ桜の花見に行く。並木の見事な雰囲気は味わったものの、花見の峠は越えており、もう一つ躍動感が起こらない。そのまま通過。道の駅のWebサイトによると、満開時は見応えがありそうだ。
- 復路 ② 道の駅 フォーレなかかわね茶茗舘
お土産処「緑のたまてばこ」で、山菜などの土産品を買ったあと、入ったところが茶茗舘。お茶のおいしい飲み方教室のお茶セット券を購入し、和室へ。
和室には緋毛氈が敷かれ、椅子と茶台が用意され、茶台の上にお茶セットが置かれる。和室の前には日本庭園が広がり、雰囲気はよい。飲み方の指導は同年配くらいの品のある女性。熱湯の入った急須やお茶の葉を入れる急須等があり、それを湯呑みに注いで飲むまでに手順があるらしい。その作法を指導されながらお茶を飲む。数回繰り返して飲むので、それほど窮屈ではなく味わいながら飲むことができる。
その後、日本庭園を一巡して辞去。
- 復路 ① 徳山のしだれ桜
- 復路 ③ 蓬莱橋
蓬莱橋は全長897.4m、世界一長い木造橋。
徳川家は明治に駿河の国に移封され、牧之原台地を茶畑として開拓する。その牧之原台地と東海道の島田宿を結ぶために、1879年(明治12年)に大井川に架けられたのが蓬莱橋である。その由来は、牧之原台地を宝の山を意味する「蓬莱山」に例えたことにある(『ウィキペディア』)。
橋のたもとには、作家吉田絃二郎の次の石碑が建つ。- しぐれけり暮るるもあはれ大井川 吉田絃二郎
橋を渡った体験をもとにして詠んだものといわれる。
蓬莱橋は、「越すに越されぬ大井川」といわれた、流量の多い時代に築かれた橋。その頃は今よりも大きな不安を抱きながら渡っていたと思われる。- 川は今越すも越せぬも砂利の川 奥谷 出
今の大井川は、こういう風に変わってきているが、それでも橋の上に立つと一抹の不安は覚える。時間の都合もあって途中で引き返す。
- 復路 ④ 旧東海道 金谷坂の石畳
金谷坂は粘土質で滑りやすかったらしく石畳にしたといわれる。旧街道の石畳遺跡としては、ほかに中山道の十曲峠(つづらおれとうげ)の石畳や旧東海道の箱根の石畳が知られており、旧街道の3大石畳遺跡といわれる(金谷坂石畳の案内板より)。
金谷坂の石畳の入口付近には、芭蕉の門人で、この付近で死去した六々庵巴静の次の句碑がある。- 曙も夕暮れもなし鶏頭華 六々庵巴静
【この句は当初意味不明であったが、最近、『ウィキペディア』で、ケイトウの学名を見て納得するものがあった。学名は燃焼という意味のギリシャ語に由来し、ケイトウの花が燃え盛る炎を彷彿とさせるのが根拠と思われる、という】
ところで、この地を訪れた目的は、近くの石畳茶屋で昼食をとることであったが、あいにく時間外でそのチャンスは逃してしまった。
- 曙も夕暮れもなし鶏頭華 六々庵巴静
- 復路 ⑤ 竹の秋
島田金谷ICから東名に乗る。過ぎ行く山々を眺めているうちに、黄ばんだ竹叢があることに気付く。
暮春の山々は、杉やヒバなどの針葉樹の深緑をベースにして落葉樹の緑と照葉樹の黄緑が濃くも薄くも緑一色になるのが普通と考えていたので、その黄ばんだ竹叢は異色で目立った。
家に帰って調べてみると、陰暦㋂は竹の秋、竹の落葉期(『広辞苑』)とある。Webサイト『富山市科学文化センター』によると、「竹の秋」とは、- 黄色く色づいたモウソウチクの枝を見ると、一つの小枝には、葉が3~4枚ずつ付いていますが、枯れているのはその中でも一番下(根っこに近いほう)の葉です。もう何枚か落ちてしまって、枝先に1~2枚残っているだけのこともあります。枯れた葉を手で引っぱると、いとも簡単にはずれます。
枝の別の場所からは、何やら小さな葉がついた小枝が伸びだしています。新芽です。モウソウチクもほかの木と同じように、この時期に新芽を出しているのです。これから夏に向って日ざしが強くなっていきますから、新芽をだすには今がもっともよい季節です。
新しい葉は、これから一ヶ月ぐらいかけて一人前の大きさになっていきます。その間に、去年の古い葉がどんどん落ちていくので、タケ全体がすかすかの竹ぼうきのようになります。新芽が太陽の光をたくさんあびることができるように、タケは古い葉を先に落とすと考えられます。
ということである。黄ばんで見えたのは、黄葉を始めた古葉だったのである。親竹が前年から蓄えてきた養分を地下の筍の生育に注ぎ込むため、葉が色褪せ黄ばんだ状態になるのだといわれる。そして、黄葉した古葉は竹落葉となるである。
- さらさらと竹の落葉の音凄し 正岡子規
サラサラと鳴るのは落ちる黄葉の擦れる音。掃いても掃いても きりがないほど降ってくる。
こういう暮春の風景を眺めていると、濃くも薄くも緑一色という捉え方は考え直す必要がありそうだ。針葉樹の深緑をベースに、落葉樹の緑、照葉樹の黄緑色の若葉、そして、竹落葉の黄ばんだ古葉が斑模様を付けるとでも言っておいた方が的確な感じがする。
- 黄色く色づいたモウソウチクの枝を見ると、一つの小枝には、葉が3~4枚ずつ付いていますが、枯れているのはその中でも一番下(根っこに近いほう)の葉です。もう何枚か落ちてしまって、枝先に1~2枚残っているだけのこともあります。枯れた葉を手で引っぱると、いとも簡単にはずれます。
- 復路 ⑤ 東名から見える霞たなびく冠雪の富士
沼津ICが近くなると、冠雪の富士山が霞をたなびかせながら姿を現す。ふと思い出したのが、「駿河の国に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と詠われた白隠禅師。白隠の名前は、富士山に因んでおり、「富獄は雪に隠れている」とのたとえからとったものという。
白隠禅師が住職を務めた松陰寺は沼津市原にあり、白隠さんの名で今も親しまれる寺(Webサイト『ぬまづの宝めぐり』松陰寺と白隠禅師)、という。
白隠禅師が富士山と並び称される所以は、「大悟十八度、小悟その数を知らず」と、悟りの後も修行に余念がなかったことと、数々の禅画を用いて広く民衆に教えを説いて回ったことといわれ、また臨済宗中興の祖として後世に名を残し、五百年に一人の偉人とまで仰がれていることによる(Webサイト『ぬまづの宝めぐり』松陰寺と白隠禅師)、という。禅画には、擂鉢の中に立つ「すりこ木棒」にミソサザイが止まっており、画賛に「鶯になりが似たとてミソサザイ」とある。
ミソサザイはウグイスに似た小柄な鳥であるが、体に似合わぬ大きな声でやかましく囀る。
「ウグイスではございません。ミソサザイのような私ではありますが」と謙遜しながらも、白隠に喩えられるミソサザイが「いらっしゃい、いらっしゃい、当店には極上の味噌(白隠禅)がございます。どうぞお試し下さい」と、大声で「手前味噌」、すなわち自前の禅を宣伝しているところ(Webサイト『臨済宗 正光寺』白隠禅画帖)、という。
白隠は自分の教えを味噌に喩えることがあり、ミソサザイのミソも手前味噌の掛詞である。擂鉢の中に立つすりこ木棒の上にミソサザイが止まっているのは、ミソサザイがすりこ木棒で擂鉢の中のゴマすりをしている暗示と思われる。ところで、何故ミソサザイと鶯が対比されるのであろうか。
2つの鳥が似ていることは、尾羽を真っすぐに伸ばしている姿形である。ただし、鶯は水平、ミソサザイは垂直である。それから、もう一つの関わりがある。
【狭匙・切匙(せっかい)】というものがある。これは、擂鉢の内側などについたものをかき落とす具、飯杓子を縦に半折したような形のものであり、うぐいすという名前がある(『広辞苑』)。室町時代の宮廷の女官が使った丁寧語、「女房詞」である。
お節介の語源ともいわれる「狭匙」が鶯と呼ばれる由来として、狭匙は、串や箆(へら)の形をしたもので、鶯と姿形が似ているということがあるが、もう一つは次の和歌に由来するものである。- 飽かなくに折れるばかりぞ梅の花
香をたづねてぞ鶯の鳴く 順徳院(『続後拾遺和歌集』春上)
味噌を女房詞で香(『広辞苑』)という。擂鉢に付着している味噌、すなわち香を見つけては狭匙が移動する様子は、前述の和歌のように「梅が香」を訪ね歩く鶯の様子に似ている。それ故に、狭匙を鶯と呼ぶのである。狭匙という小道具が優雅な道具に変身したとみることができる。パソコンのポインティング装置マウスの由来に似ている。
- 飽かなくに折れるばかりぞ梅の花
- 復路 ⑤ 沼津にて
沼津ICで遅い昼食。麺処に行くと富士山盛りという陳列品があった。かなり高く盛ってある。よく見ると2.2倍と書いてある。これでは食べきれない。諦めて、並盛そばにサクラエビのかき揚げ。かき揚げも通常より大きい。 - 復路 ⑤ それから
再び高速道に乗り厚木ICで降り、平塚駅前でKT氏と別れる。西湘バイパスに出て京急新逗子駅前でAA氏と別れる。そして、逗子ー横須賀間を横横に乗り衣笠を経由して三春町でTI氏と別れる。その後、馬堀りのMK氏宅でKS氏の車に乗り換え、武でMA氏と別れ、起点の長沢に到着。暮春の有志旅行は楽しくまた無事に終わった。
長距離運転、ご苦労様でした。ゆっくりお休みください。
帰ってからテレビを見ていたら、寸又狭、夢の吊り橋の紹介をしていました。機会があればまた行きましょう。