つれずれなるままに
亥と猪雑記
今年は亥年である。亥というと荒々しい猪が浮かんでくる。正月早々に猪狩りに出かけた人が「やられた」という言葉を残して亡くなってしまったというニュースがあった。まったく恐ろしいことである。
しかし、亥に対してはどうもそれだけの印象ではないらしい。歴史をひも解くと不思議な関係が見えてくる。
まず、花札などでよく知られる「萩に猪」。調和を旨とする景物の取り合せであるが、この景物の取り合せは優雅なものと荒々しいもの、何とも不思議な組み合わせであるが、それなりの納得させられる由来が存在する。
また、日本武尊の伊吹山神話では、山の神として現れ、恐怖と尊敬、すなわち神への畏敬の念という二面性のうちの恐ろしい側面をみせるが、伊吹山の案内板には尊敬すべき側面についても説明されている。
そして、奈良時代を揺るがせた宇佐神宮神託事件では、猪は人を守護しているのである。
このような不思議な魅力をもつ亥や猪について次の観点から記してみたい。
- ジャンピングインデックス
- ① 亥の語源
- ② 陰陽五行説と亥
- ③ 猪に関することわざや表現
- ④ 「萩に猪」の由来: 臥猪の床
- ⑤ 神や神使となった猪
- ⑥ 漢字喜遊曲
1. 亥の語源
亥は訓で「い」、音で「がい」である。元字は「閡({門<亥}: がい)」、「とざす」の意。草木の生命力が種の中に閉じ込められた状態を表しているとされる(『ウィキペディア』亥)。収穫された稲が蔵に収納されている状態とも解せる。亥に続く子は、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しているとされ、その観点から亥は準備期間と捉えることができる。
後に、覚え易くするために動物の「猪」が割り当てられる。
古い大和言葉では、猪は「ヰ(イ)」と呼んだという。イノシシは「ヰ(猪)のシシ(肉)」が語源であり、シシは大和言葉で「肉」を意味する(『ウィキペディア』亥)。
Webサイト『語源辞典』によると、「しし」はもともと肉という意味であったが、転じて「食用にする獣」となり、さらに「獣一般」を指すような言葉になったという。このことから、「いのしし」の表記も「猪の肉」 ⇒ 「猪の獣」 ⇒ 「猪」のように変遷したものと推定される。
日本では「猪」の字は「イノシシ」を意味するが、中国では「ブタ」を意味し、イノシシは野猪である(『ウィキペディア』亥)。
2. 陰陽五行説と亥
陰陽五行思想は、陰陽の対立によって事象を説明する陰陽思想と木,火,土,金,水の元素の変化と循環によって事象を説明する五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明をする思想である(『ウィキペディア』陰陽五行思想)。中国では、時の為政者は正常な輪廻循環をはかることに努め、国の興廃も易姓革命と呼ばれる陰陽五行思想に基づく説で説明されていたといわれている。
陰陽五行説は、飛鳥時代に伝来されて以来、日本の文化に大きな影響を与えただけではなく、節句や土用の丑の日、干支など、日本の風習に今なおその影響が残されている。
亥についても、次のような関わりが見られる(『ウィキペディア』亥)。
- 亥は十二支の最後に配置される。しんがりである。これは、閡の字が関わっていると思われる。
- 亥の月は旧暦10月(概ね新暦では11月)
- 亥の刻は午後10時を中心とする約2時間
- 亥の方位は北西よりやや北寄り(北西微北:北基準右廻り330°)の方角
- 亥は五行では水気
- 亥は陰陽では陰
3. 猪に関することわざや表現
猪について、多くの人が抱くイメージは野性的な荒々しさであり、その側面が強調された表現が見られる。
- 鹿猪田(ししだ)
「ししだ(鹿猪田、猪田、鹿田)」とは、「猪や鹿などの獣が踏み荒らす田」(広辞苑)、である。- 霊(たま)合はば相寝むものを小山田の
鹿猪田禁(も)るごと母し守(も)らすも (『万葉集』12-3000)
猪は万葉の時代に既に害獣の代名詞であったのである。しかも、「しし」という言葉は忌み嫌われて十六と書いたものがあるという。(万葉の時代に九九が知られていたのである)
【現代訳】気が合えば共寝もする娘を守ろうとして男を近づけないように監視する母親を、「山の田でシカやイノシシを見張るようだ」と例えて、恋路の邪魔をする母親(の監視)を嘆いている。 - 霊(たま)合はば相寝むものを小山田の
- 猪狩(いかり)
猪による食害は日本で農耕が始まって以来、問題であったようである。小生も、そのために竹の子に縁遠くなってしまっている。これに関連して猪狩という言葉があり、神様までいる。
伊勢神宮の外宮の末社に伊我理神社がある。祭神は「伊我利比女命」(いがりひめのみこと)。名の由来は「猪狩」であり、五穀を食い荒らす猪を狩る女神だとされている(『ウィキペディア』イノシシ)。
外宮御料田の耕種始めの神事において、猪害を防ぐ意味のお祭りのために祀られていたようである(Webサイト『伊勢神宮崇敬会』外宮めぐり)。
伊勢神宮でさえも鹿猪田を恐れて伊我利比女命を頼ったという面白い、いや深刻な信仰である。
秩父にも猪狩神社がある。こちらは、日本武尊が東征の折、この地を荒らす猪の群れを退治した故事にちなむもの(Webサイト『秩父市』猪狩神社社殿)、である。『広辞苑』によると、【猪狩・鹿狩・獣狩】の読みは「ししがり」である。伊我理神社や猪狩神社については「いかり」と読み、使い分けている。獣として扱う場合は「しし」であり、神が関わる場合には「い」としているのであろうか。
- しし垣
しし垣とは、害獣の進入を防ぐ目的で山と農地との間に石や土などで築いた垣のこと。「猪垣」「鹿垣」「猪鹿垣」などと表記する(『ウィキペディア』しし垣)。江戸時代に九州長崎や中国地方、近畿地方、瀬戸内地方の島々で多く作られた石塁、土塁がこのように呼ばれている。あたかも万里の長城のように土を焼いて作ったものを並べて築いたものもある。囲いで土地をまったくふさいでしまうのではなく、人が通るための木戸をつけたりもした。木戸以外から侵入するものをとらえるための陥穴(しし壺ともいう)も付けられていた。
瀬戸内の小豆島には、万里の長城のミニ版ともいうべき土塁と石垣の鹿猪垣(ししがき)がある(『ウィキペディア』しし垣)。
小豆郡誌によると、しし垣は全島を一周する延長30里(約120km)に及び、寛政2年(1790)に完成したが、その築造や維持管理は村人全員で行うことを申し合わせていた(Webサイト『小豆島観光協会』しし垣(橘峠))、という。
こういう昔の人の遺産が、猪狩り対策や文化遺産という観点から見直されているようである。 - 猪突猛進(ちょとつもうしん)
むこう見ずに猛然と突き進むこと(『広辞苑』)。猪というとまず最初に浮かぶ言葉である。
しかし、それは一面的な見方のようである。猪の生態について、次のようにいう研究者がいる。- 猪突猛進というイメージも、本当は臆病細心な性質の裏返しの姿。せっぱ詰まると、パニックになって逆上してしまう。ふだんはもっと慎重だし、注意深い動物。人のうごきをじっと観察する賢さももっている(『イノシシから田畑を守る おもしろ生態とかしこい防ぎ方』)。
これを逆説的に解釈すると、人間はパニックになっている猪しか見ていないということであろうか。狩猟のときに見る猪はまさにそういう状態なのであろう。
- 猪武者(いのししむしゃ)
前後の考えもなく、無鉄砲に敵に向かって突進する武者(『広辞苑』)。
しかし、徳川家康に「政治に長けた猪武者」と言わしめた武将・大名もいる。上野国高崎藩の初代藩主で、後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主となった井伊直政である。トップに君臨する人ではなかったが、武勇・政治的手腕に関して優れた器量をもっていたようである(BS-TBS「THEナンバー2 ~歴史を動かした陰の主役たち~」)。
- 「猪飢渇(イノシシケガジ)
八戸藩では、寛延2年(1749)に大きな凶作があり、俗に「猪飢渇(いのししけがじ)」と呼ばれ、約3,000人の餓死者を出した(『天明卯辰梁』)、という。「猪飢渇」とは猪の大量発生により畑作物が食い荒らされたことによって引き起こされたといわれていたからだが、必ずしも獣害だけでなく、同年の飢饉では冷害の影響も強かった(Webサイト『弘前市立弘前図書館』「新編弘前市史 通史編」)、という。猪は短足のため、雪深い東北には住めないという説があるが、八戸藩での被害記録からそれは事実でないことがわかる。
- しし食った報い
獣肉を食べることが禁止されていた時代のことわざである。禁を犯して一時的に良い思いをしても、後で必ずそれ相応の悪い報いを受けるという意味である。
イノシシ肉をよく食べる兵庫県篠山市では、本当は「しし食うて温(ぬく)い」で、いのししを食べると精力がつき、体が温まるという意味だが、他人には食べさせたくないので、「しし食った報い」と言うという説があることを紹介している。 鹿肉も「しし」と言うことがあり、いのししにかぎらず、獣肉を食べるとさわりがあるという意味だとも言われている。 (『ウィキペディア』イノシシ)。
- ボタン肉・山クジラ
「獅子に牡丹」という成句から、獅子を猪に置き換えて牡丹肉(ぼたんにく)とも呼ばれる。また、獣肉食を避けた名残で山鯨(やまくじら)ともいう。
歴史的には、旧石器時代から現代までを通じてイノシシは人類にとって重要な狩猟対象となっている。このため、日本では縄文時代早期の遺跡からもイノシシが出土する。イノシシは縄文時代を通じてシカとともに主要な狩猟獣となっている。また、狩猟だけでなく飼育の対象にもなっており、特にブタは長距離の移動が困難なため、移住先でイノシシを捕獲して飼育する試みがユーラシア大陸各地で行われてきた。日本列島では縄文時代にイノシシの飼養が行われていたと考えられており、弥生時代には大陸から家畜化されたブタが導入された (『ウィキペディア』猪肉)、という。
江戸時代後期には山鯨と称して獣肉を売り,また,料理して食べさせる店が多く出現した。山鯨というのは,魚とされていた鯨に擬した獣肉の総称である(『世界百科大事典』)、という。歌川広重の「名所江戸百景 びくにはし雪中」にも「山くじら」の看板が見える。 - 和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、言ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪(い)のししも、「ふす猪の床」と言へば、やさしくなりぬ。
この比(ころ)の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、けしきおぼゆるはなし。(『徒然草』第十四段 和歌こそ、なほをかしきものなれ) - 和歌は、やはり趣深いものだ。……和歌に詠めば情緒があり、おそろしい猪も「ふす猪の床」と言えば、優雅になる。最近の歌は、一節趣深くうまく詠んでいると見えるものはあるが、古い歌のように、どういうものか、言外に余韻を漂わせている感じがするものはない(Webサイト『徒然草 現代訳付き朗読』)。
- 夏の野の萩の初花折り敷かむ
臥猪の床は枕ならべて 慈円『拾玉和歌集』 - 歌のやうにいみじきものなし。ゐのししなどいふおそろしき物も、ふすゐの床などいひつれば、やさしきなり(『八雲御抄六』)。
- かるもかき臥猪の床の寝(い)を安み
さこそ寝ざらめ かからずもがな 和泉式部『後拾遺和歌集』
枯草をかき集めて寝床をつくる猪は、居心地がよくて何日も安眠するというけれど、そんな風に熟睡できないまでも、このように恋に思い悩まずほんの少しでも眠れたらよいのに……。。 - かるもとは枯れたる草也.其草を掻き集めて猪は伏す也.ゐのながいとて,七日まで伏すと云へり 藤原範兼『和歌童蒙抄』
- 1) 伊吹山の神 白猪
-
伊吹山は古くから神が宿る山として信仰の対象であったという。そして、『古事記』に日本武尊が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が記されるのは和銅5年(712年)のことである。
伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、「牛のような大きな白猪」とされる。『日本書紀』では「大蛇」である(『ウィキペディア』伊吹山)。- 日本武尊は草薙の劒(くさなぎのつるぎ)をミヤズ姫のもとに置いて、伊吹の山の神を撃ちに出かけた。
「この山の神は素手で取つて見せる」と仰せになつてその山に登って行ったとき、山のほとりで白い猪に逢った。大きさは牛ほどもある。そこで大言して、「この白い猪になつたものは神の從者だろう。今は殺さないで帰るときに殺してやろう」と仰せられて登って行った。
山の神は怒り大氷雨を降らして日本武尊を打ち惑わす。この白い猪に化けたものは、この神の從者ではなくして、神そのものであつたが、命が大言されたので惑わされたのである。
かくて帰っておいでになつて、玉倉部(たまくらべ)の清水に到つて休んでいると、心がすこし醒めてきた。そこでその清水を居醒め(いさめ)の清水という。
こののち、日本武尊は、当芸野(たぎの)、杖衝坂(つえつきざか)、尾津埼、三重村を通り能煩野(のぼの)に至ってついに力尽きるのである(『古事記』青空文庫)。 - 日本武尊神話は、奈良の都の人々がいかに伊吹山を畏れ敬っていたのかを物語っているのです。
- 『日本書紀』では「大蛇」が神の化身です。「猪」は、多産、豊穣の象徴であり、「大蛇」は水神。水を司り豊穣をよぶ一つの動物が伊吹の神の化身であることは、この山の神が「水の神」として信仰されていたことを見事に物語っています。
- 蛇と猪。なぜ山の神はふたつの異なる神格を持つのか? 日本古来の社の祭神の起源は、祖霊としての蛇神であった。六~七世紀、中国から招来された易・五行による新たな神々が、原始蛇信仰の神々と混淆し、山の神は複雑な相貌をもつようになる(『山の神』講談社学術文庫)。
伊吹山の案内板「伊吹山之神 白猪の由来」には、
と記されている。『古事記』の神話は伊吹山の恐ろしい側面を物語ったものと思われる。それと共に、案内板には、
と記され、神として信仰されていた側面も強調されている。
民俗学者吉野裕子は、といい、白猪と大蛇が現れる理由を示している。
猪は陰陽五行説の五行では「水」であり、大蛇が水神であることと対応する。
また、山の神は、「春秋去来の伝承」によると、春に田に降りてきて田の神となる稲作信仰の神であり(『ウィキペディア』田の神)、伊吹山の案内板に、猪や大蛇が豊穣の象徴と記されていることを裏付けている。
また、伊吹山はミヤズ姫や草薙の剣が祀られる熱田神宮の西北、すなわち陰陽五行説では戌亥にあたる。この観点から、伊吹山の神が猪であることが導かれたものと思われ、吉野裕子の説と符合する。陰陽五行説からみると、伊吹山の神が大蛇という『日本書紀』の説は相容れない。故に、伊吹山の神の大蛇説は、陰陽五行思想が伝来していない原始信仰の中から生まれたものと思われる。
しかも、猪と大蛇は、方位では亥と巳に対応し、対極の関係にある。 - 日本武尊は草薙の劒(くさなぎのつるぎ)をミヤズ姫のもとに置いて、伊吹の山の神を撃ちに出かけた。
- 2) 宇佐神宮と猪
- 宇佐八幡宮神託事件は奈良時代を揺るがした大事件である。しかも、そこに宇佐神宮としては、珍しく猪が神使として現れるのである。
弓削道鏡は、孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世する。
天平宝字8年(764)、孝謙上皇と対立した最高実力者・藤原仲麻呂が反乱を起こす(藤原仲麻呂の乱)と、上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ぼす。乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して、自らが称徳天皇として復位する(重祚)。道鏡は、称徳天皇のもとでその片腕となり、天平神護元年(765)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766)には「法王」となる。こうして、称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入する。神護景雲3年(769)5月、道鏡の弟で大宰帥(だざいのそち)の弓削浄人(ゆげのきよひと)と大宰主神の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(ほうきん、和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣される。
清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもって君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。
道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて(狭虫(さむし せまむし)と改名させられたという説もある)処罰された(『ウィキペディア』宇佐八幡宮神託事件)。
これが宇佐八幡宮神託事件と呼ばれるものである。そして、日本歴史叢書『宇佐宮』は、猪に関する由来を次のように記す。
- 『豊前志』によると、「和気清麻呂配流せられし時、猪多(さわに)来たりて、清麻呂を負いて、宇佐宮に詣で、猪は八面山の麓に入りぬ。故、其処に社を建て、猪山(ちょざん)八幡宮と称すと云へり」とあり、『日本後期』には清麻呂足を痛めていたとき宇佐郡楉(しもと)田村に野猪300許りが助けて宇佐宮を拝し、歩くことができたという記事をあげている。楉田村は宇佐郡とあるが下毛郡であろう(『永弘文書』)。……。元禄7年には造営のことがあり、神護寺のこともみえるので、神護寺が別当寺(神宮寺)であったらしい。元禄には祭りも衰えていたことがわかる(『稲用文書』)。現在は合祀され、社殿もなくなり宝塔一箇だけが残っている。
このように宇佐神宮の加護により、清麻呂は無事に宇佐神宮に到着し、足も治るのである。
また、Webサイト(『大分県中津川市』さんこう昔話文庫 和気清麻呂の猪物語)にも、次のように記される。
- 清麻呂は大隈(現在の鹿児島県)に流されるが、その途中、再度宇佐神宮に立ち寄ろうとして、八面山麓の加来村まで来て足を悪くした。療養している清麻呂に、命をねらう道鏡の刺客が近づいている、という知らせが届いた。動けないでいる清麻呂のもとに、箭山(ややま)から三百頭のイノシシが現れ、清麻呂を乗せ、宇佐神宮まで案内すると、八面山に帰っていった。イノシシの入った地に社を建て、清麻呂を祭った。それが猪山(ちょさん)八幡社で、 その跡地が上田口の猪山にある。
これにより、猪は箭山から現れ、上田口の猪山に戻ったことがわかる。
和気清麻呂の守護に猪が現れたことに関して、八幡宮の中で神使としているものはあまり見られないが、その数少ない神社の一つとして、水戸八幡宮がある。水戸八幡宮は、水戸城の北西、戌亥にあり、その神前の左に亥、右に戌の神像が配置され、戌亥の守護神とされている。
また、火伏の神ともされている。これは陰陽五行説から導かれたものと思われる。亥は陰陽五行説の五行では「水」であり、五行相剋によると、水と火の相互作用は水剋火、すなわち水は火を剋すのである。『ウィキペディア』の陰陽五行思想によると、水は火を消し止めるという相互作用がある。 - 3) 護王神社と猪
-
護王神社は、和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った護王善神社に始まる。正確な創建の年代は不詳である。和気清麻呂と姉の広虫は、宇佐八幡宮神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた(『ウィキペディア』護王神社)、という。
和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から、明治23年(1890)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もある。そのため亥年の参拝者は例年よりも増加する傾向がある。境内には狛猪のほかにも多くの猪に因むものがある。
日本銀行券としてかつて発行されていた十円紙幣は、1890年から1945年まで発行されたものは一貫して和気清麻呂と護王神社が描かれたが、そのうち1890年に発行されたものは表面の枠模様の中に8頭の小さな猪が描かれ、さらに1899年に発行されたものは裏面に大きな猪が1頭描かれた。10円紙幣はその後1915年発行のものから猪が描かれなくなったが、その後も含めて和気清麻呂の肖像画が描かれた10円紙幣は長らく「いのしし」と俗称された(『ウィキペディア』護王神社)、という。護王神社の神徳の中で、宇佐八幡宮神託事件の故事由来で、次の功徳(Webサイト『護王神社』)があるとされる。
- 腰の健康・病気怪我回復: 和気清麻呂は、宇佐八幡宮神託事件で大隅国(今の鹿児島県)へ流されるとき、足萎えで立つこともできませんでしたが、猪のご守護によって不思議と立って歩けるようになったという故事に因み、足腰の守護神と仰がれている。
- 厄除け・災難除け: 和気清麻呂が大いなる国難を身を賭して除かれたことに因み、諸々の災厄を祓い除く神様として崇敬されている。
- 亥年生まれの御守護: 和気清麻呂と猪との深いご縁により、亥年生まれの方には特にご利益があると崇敬されている
- 腰の健康・病気怪我回復: 和気清麻呂は、宇佐八幡宮神託事件で大隅国(今の鹿児島県)へ流されるとき、足萎えで立つこともできませんでしたが、猪のご守護によって不思議と立って歩けるようになったという故事に因み、足腰の守護神と仰がれている。
- 4) 愛宕神社と猪
- 京都の愛宕神社は、大宝年間(701~704)に、修験道の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)と白山の開祖として知られる泰澄(たいちょう)が朝廷の許しを得て愛宕山に神廟を建立したのに始まる。その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場とした。そして、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶され、愛宕神社となり現在に至っている(Webサイト『総本宮 京都 愛宕神社』御由緒)。
愛宕の神とされるイザナミは、神仏習合時代には勝軍地蔵菩薩を本地仏とし、軻遇突智(かぐつち、火産霊尊とも)も共に祀られた(『ウィキペディア』愛宕信仰)。また、神使は和気清麻呂の救難故事で知られる猪である。
愛宕神社は火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている(『ウィキペディア』愛宕神社)、という。愛宕の神が火伏せに霊験のある神として広く信仰されるようになったのは中世後期以降であり、愛宕信仰が日本全国に広まるのは江戸時代中頃である(『ウィキペディア』愛宕信仰)。
愛宕の神が何故火伏・防火の神なのか。この謎を解く鍵は陰陽五行説にあると思われる。
愛宕神社は、平安京の北西、十二支では戌亥の方向に位置する。そして、神使の猪は十二支の亥。亥は、陰陽五行説の五行では水。また、愛宕の神とされるイザナミと共に祀られたカグツチは火の神である。陰陽五行説の五行相剋によると、水と火の相互作用は水剋火。すなわち水は火を剋すのである。『ウィキペディア』の陰陽五行思想によると、水は火を消し止めるという相互作用である。
そのことにより、愛宕の神は、火の神軻遇突智を擁していながらも水剋火の相互作用によって火伏せ・防火の神の役割を果たすことができるのであると思われる。 - 核の中の亥
物の核心に亥がひそむ
細胞核には遺伝をになう猪
原子核には原子力をになう猪
いずれも今は人に飼いならされているけれど
いつまで、おとなしくしていることか
(『吉野弘全詩集』)
4. 「萩に猪」の由来: 臥猪の床(ふすいのとこ)
「萩に猪」は7月の取り合せである。萩は、『万葉集』で最も詠われた象徴的な植物である。現在、各市区町村で制定されている花としても、数は多くはないが12例ある(小生の調査記録)。ホトトギスも、『万葉集』で最も詠われた鳥であるが、市区町村の鳥としては1例しかないことと対照すれば相違がわかるであろう。
紫色の優雅な萩に対して、荒々しい猪の取り合せは、調和を旨とする取り合せに対しては不調和にさえ思えるが、長い間存在している不思議な取り合せである。その由来が知られている。
下記は徒然草の一節である。
現代訳は次の通り。
という。
『広辞苑』によれば、臥猪の床とは、猪が、萱(かや)・萩などを敷いて寝た所という。すなわち、猪の寝床である。そして、根拠として引用された和歌は次のものである。
臥猪の床は萩の初花を折り取って作られることが示されており、優雅な寝所であると印象付けられている。また、その床で枕を並べて寝る猪の姿は、優しくかつ優雅な趣があるものと思われる。和歌の作者は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧で、比叡山の天台座主を4度務めた慈円である。
「おそろしき猪のししも、「ふす猪の床」と言へば、やさしくなりぬ」という文章は、平安時代末から鎌倉時代初期、前述の慈円より20~30年ほど前の寂蓮の次の言葉(和歌観)を踏まえたもの(Webサイト『徒然草 現代訳付き朗読』)、である。
これらの和歌観に関連する古歌は次のものである。
この和歌には、「師(そち)の宮亡(う)せ給ひての頃」の詞書がある。恋する人が亡くなって悶々としている心と荒らしい猪が優雅な臥す猪の床でぐっすりと寝ているさまを対比している。寂蓮の言うように余韻を残す和歌である。
平安時代の歌学書『和歌童蒙抄』は、この和歌に次の注釈をつけている。
「かるも」は「枯れた草」。猪はその草をかき集めて寝る。一度寝ると、猪の長寝といって7日間寝るという。
荒々しい猪が、一旦優雅な「臥す猪の床」で寝始めると、猪の長寝といわれるほど眠りこける。そのさまもまた優雅な趣のあるものとうつるようである。
このように、平安時代の古歌や歌論書まで遡ってみると、萩と猪の取り合せも不調和でないことがわかってくる。
6. 神獣や神使となった猪
荒々しくて恐れられた猪であるが、神や神使として敬われてもいる。神としての要件、恐怖と尊敬、すなわち畏敬の念を持ち合わせているということと思われる。
7. 漢字喜遊曲・亥短調
亥の和歌として適切なものが見つからず困っていたとき、偶然に本詩に出会い、新鮮な印象をうけた記憶がある。
暫くして、詩題が「漢字喜遊曲」であることに気付く。なるほど、万葉の時代から始まったといわれる漢字を分解する文字遊びから生まれた詩である。
亥の元字「閡」にも核心に亥が潜んでいる。そして、最後の句「いつまで、おとなしくしていることか」についても、門の内に潜んでいる亥を考えれば、やがて門の外へ出たくなるであろう。
恐らくこの詩の発想はそういうことであったであろうと思われる。そして、細胞や原発の社会的な話題と結びつけた。そのとき、亥を核の中に見出したことが単なる文字遊びから詩と発展させる要因となったものと思われる。