鶯に誘われてシリーズ
冬木の梅は花咲きにけり
久しぶりに天声人語を見た。さる人がこの間の天声人語に鶯の話が載っていたよ、と教えてくれたからである。
かって、梅の花といえば紅梅ではなく白梅であったと切り出していた。その理由として挙げたのが素性法師の次の和歌。
- 春たてば花とやみらむ白雪の
かゝれる枝にうぐひすのなく 素性法師(『古今和歌集』春上)
そして、梅の花がほころび始めたところに雪が降った。きのう都心を歩くと、街路樹が白い装いになっていたという。
梅から入り、白梅 ⇒ 白雪と展開され、いつの間にやら白銀の世界へと招待されていた。相変わらずの展開の妙である。
作者は、梅の花がほころび始めたところに雪が降ったことが多少気にかかっていたようであるが、どうなるのかその展開については記されていない。
梅の花を散らす要因については、平安時代からすでに詠われていることである。雪、風、鶯などが挙げられている。鶯に関する有名な和歌として次のものがある。
- 羽風だに花のためにはあたご鳥
おはら巣立にいかがあはせん(『三十二番職人歌合』)
この和歌の「羽風だに花のためにはあたご鳥」という句については、「鶯が梅の木を木伝いすると、羽風(はかぜ)が起き、それによって梅の花は散らされる。鶯は「梅に鶯」といわれ、もてはやされるが、梅にとってはまったく仇な鳥である」、といって嘆いてみせているのである。あたご鳥は、京都の愛宕山産の鶯で、仇をかけた掛詞である。
後半の「あたご鳥、おはら巣立にいかがあはせん」については、やはり京都の愛宕郡大原郷(現在の同市左京区大原)産の「大原鳥」(おはらどり)に、愛宕鳥を如何に対抗させようかと思案している様子を詠ったものである(『ウィキペディア』鶯飼)。
この和歌は、室町時代の明応3年(1494)に編纂された『三十二番職人歌合』で鶯飼いという職人、というより職人に変装した歌人によって詠まれた和歌であり、いくつかの観点から注目されている和歌である。
- 梅の花を散らす要因として鶯が木伝いするときに起こす羽風を挙げ、仇を掛けた掛詞として愛宕鳥という鶯の異名を作り出している。
しかも、中国伝来の鶯の異名「護花鳥」とは対極の鳥である。この鳥は「花を損するな」「花を盗むな」と鳴くといわれている。 - この和歌の後半で詠われる情景は鶯の鳴き合わせを詠ったもので、室町時代に鶯の鳴き合わせが行われていたことを示している。この鳴き合わせは一度廃れ、江戸時代後期、化政文化の時代に新たに催行され、その様子は鶯谷駅近くの記念碑「初音里鴬之記」に記されている。
- 鶯を飼って育成し、貴族や大名に販売することを商売とする鶯飼という職人が存在していたことを示している。
応仁の乱で落城し、鶯籠を両手にぶら下げて落ち延びる大名を風流と称賛する記録も残っている(『応仁後記』)。風流ゆえに名を残したのかもしれない。しかし、能を大成した世阿弥は、「酒・博打・好色」に「鶯飼い」を加え、4悪として戒めたといわれる。如何に鶯に狂喜していたかが分かるような気がする。 - 愛宕鳥や大原鳥という名前までついた鶯が存在し、その産地まで明らかになっている(『ウィキペディア』鶯飼、『中世職人語彙の研究』)。
- この時代の鳴き合わせについてはほとんどわかっていない。この和歌はわずかながらその資料を提供してくれるという点において貴重である。有名な「洛中洛外図」の中の三条西邸の門前で行われている鳴き合わせの図があるが、それと併せて推測すると、この時代の鳴き合わせは、次のようになる。
- 鶯を入れた2つの鳥籠を適度に離して相対して地面に置く。
- そして、鳴き声の優劣を競うのであるが、どういう鳴き声なのか、何の優劣を競うのかについてはわかっていない。和歌で、「おはら巣立ちにいかが合わせん」といっているので、相手が鳴き始めたらすぐに追随する必要がありそうであるが、それ以上のことは不明である。
一方、江戸時代の鳴き合わせは、次のようにして優劣を決める(『ウィキペディア』鶯)。
- 大名から農民まで参加できる。
- 江戸の場合、向島の農家を借り切り、鶯籠に入れた鶯を一軒に一羽、大きい家では部屋を仕切って複数羽置く。隣の鶯の鳴き声が聞こえないように隔離する。
- 予め選ばれた審査員が農家を巡回して鶯の鳴き声を評価する。
- 評価対象の鳴き声は「ホーホケキョ」である。
- ホーホケキョを高音、中音、低音と3回鳴かせる。「上げ、なか、下げ」という。そして、その鳴き声の長短、節調(せつちょう、節回し)の完全なものを優とする。こうして順位付けする。最も優れたものは順の一という。
本郷の味噌屋某の飼鳥が順の一を得たときには、同時に出品した加賀の太守前田侯の飼鳥を顔色なからしめ、得意のあまり、「鶯や百万石も何のその」と一句をものしたという挿話がある(『ウィキペディア』鶯)。
愛宕鳥や大原鳥の鳴き合わせについては、平安時代の末期に平家の人たちがどちらが優れているか、喧々諤々としていたという話があるが定かではない(『ウィキペディア』鶯飼)。そのことについての確認が小生にはまだできていない。
鎌倉時代に貞永式目が定められ、鷹狩が武士の嗜みとなり、その餌として小鳥を生け捕る職人が生まれたという説がある(『大江戸飼い鳥草紙』)。その一端として、鶯を生け捕り、飼い育てる職人ができたということが考えられる。
南北朝時代に活躍した近江のばさら大名 佐々木道譽は鶯を飼っていたことが知られており(『太平記』)、鶯の鳴き合わせが行われたことを示す、次の連歌もある。
- さえかへりても春ぞ霞める
鶯の子がひすだちを鳴あはせ 道譽法師(『菟玖波(つくば)集』)
このように、鶯は雛の頃に巣ごと生け捕って来て育てたといわれている。
ところが、この頃の鶯はまだホーホケキョとは鳴いていなかったのである。おそらく「月、日、星」と鳴かせていたのではないかと思われる。「月、日、星」は江戸時代になってからも聞かれる鳴き声であるが、その由来は不明である。この時代はすでに末法の時代といわれ、ある意味では暗い時代であった。
国文学史上、平安時代末期に、雑芸時代ともいうべき時代があり、鎌倉時代初期にかけて、それらの雑芸が収録され書物もできたが、それらの中でも後白河法皇の御撰にかかる『梁塵秘抄』は重要なものである(岩波文庫『梁塵秘抄』解説)、という。それに収録された今様(歌謡)として次のものがある。
- 釈迦の月は隠れにき
慈氏(じし)の朝日は未だ遥か
その程(ほど)長夜(ちやうや)の暗きをば
法花経(ほけきょう)のみこそ照(て)らいたまへ 後白河法皇(『梁塵秘抄』今様)
慈氏は釈迦の入滅後56億7000万年ののちに世を照らすといわれる弥勒菩薩のことである(『ウィキペディア』弥勒菩薩)。釈迦が世を去り、弥勒菩薩が現れて世を照らすまでの間、世を照らすのは誰か。誰しも関心をもつことであろう。
室町時代になると、鶯は「法華経」と鳴くようになることが知られているが、その頃に今様の「法華経のみこそ照らいたまへ」という句に従って、鶯に「月、日、星」と鳴かせたのではないかと推定される。この鳴き声は「三光の鳴き声」ともいわれ、暗い世を照らす意味をもっていたことは確かなことであるが、このような展開を示す証拠は見つかっていない。(菅原道真は、鶯の美声を妙文の声と評しており、鶯の鳴き声が法華経と聞こえることは知られていたので、『梁塵秘抄」が編纂された頃には「月、日、星」と鳴かせていたということも考えられる。ただし、まだ聞きなしてはいなかった。)
狂言で、鶯を指して「あれは世間に重宝する三光とやらいふ鳥であらふ」というシーンがあり、「三光とやらいふ鳥」は鶯の異名である。なお、「月、日、星」と鳴く鳥は、三光鳥とイカルが知られているが、こちらは訓練して鳴かせた鳴き声ではない。そのような状況にあったにもかかわらず、鶯に「月、日、星」と鳴かせたことには、それなりの強い意志が働いたものと思われる。なお、この狂言は、浄土真宗中興の祖といわれる蓮如上人が好んで聞かれたという狂言であり、現在も和泉流に引き継がれている。
再び、梅の花と雪に戻るが、面白い和歌がある。
- 今日降りし雪に競ひて我が宿の
冬木の梅は花咲きにけり 大伴宿禰家持(『万葉集』8-1649)
という和歌である。「我が宿」とあるので大和国の佐保の邸宅で詠われたものと思われる。
そして、小生は今シーズンに思いを致すのである。
今シーズンは、暖かいのか寒いのかの判断がつきにくい。昨年の12月から今年の1月にかけては、珍しい現象で欅が若葉を一斉に芽吹き、紅葉も2度見た。ところが、例年ならば1月中旬に咲き始めるはずのわが家の梅は2月になってもほころびもしない。そして、2月に今年初めての雪が降り、その翌日見ると、白い花が八分咲きに咲いている。まるで万葉の和歌の世界の再現である。1,300年の時を経て、家持と同じ思いを味わった次第である。