つれずれなるままに
若山牧水の夫婦歌碑
晩秋のその日はよく晴れていた。遠くに鋸山の姿がうっすらと浮かぶ。それを眺めながら、小春日和の中を妻と野比海岸の遊歩道を歩いていると、若山牧水の夫婦歌碑が飛び込んできた。
ここを歩くのは今日が初めてではない。何度かある。しかし、今までに見た記憶はない。不思議に思いながら近づいて行くと、「しら鳥はかなしからずや」の和歌が見える。
- しら鳥はかなしからずや
そらの青海のあをにも
そまずただよふ 牧水
有名な和歌なので、はじめの方は憶えていた。しかし、後半はすっかり忘れている。近くに案内版があった。この和歌は牧水が早稲田大学に在学中に詠んだもので、明治40年12月に文芸雑誌【新声】に発表されたものという。
Webサイト(『若山牧水 -Official Web Site-』)によると、「明治40年12月、小枝子と千葉県の海岸へ出かけ越年」とある。千葉県白浜の根本海岸に滞在し、そのとき詠まれた和歌である。根本海岸にも歌碑が建っている。その後、小枝子とは別れ、歌集『別離』に再録される。
「かなし」には「愛し」と「哀し」の2説があるといわれるのはそのあたりの事情を反映しているのであろう。因みに、かなしみは【愛しみ・悲しみ・哀しみ】(『広辞苑』)と記されている。
歌碑の裏には婦人の和歌があるというので裏に回ると、「うちけぶり鋸山も浮かび来と」の和歌が見える。
- うちけぶり鋸山も浮かび来と
今日のみちしほふくらみ寄する 喜志子
この和歌は、療養のために長沢に滞在していた大正4年秋に詠まれたものという。
表に牧水の和歌が刻まれ、裏に婦人の喜志子の和歌が刻まれることから、この歌碑は夫婦歌碑と呼ばれるのだという。
夫婦歌碑の近くには、もう一つ歌碑が建っている。そこには次の和歌が見える。
- 海越えて鋸山はかすめども
ここの長浜浪立ちやまず 牧水
まるで今日という日を見透かして詠まれた和歌のようだ。
この和歌は、大正4年10月に発行された牧水の歌集『砂丘』に発表されたものである。その自序には「三浦半島の海岸にて」と記されている。若山牧水は、大正4年、妻の病気療養のため長沢に転居し2年ほど滞在されたという。『砂丘』はその滞在中に発行されたものである。
砂丘というタイトルには興味を覚える。何故この地で「砂丘」という発想をするのであろうか。野比海岸の近くには長岡半太郎・若山牧水資料館がある。いつか調べに行ってみよう。