コンピュータ
「実現性の検討」ということについて
基本ソフトウエアの研究・開発の仕事をしてきたが、仕事が一段落すると、研究報告書を書くことになっていた。そして、その報告書の中に、「実現性の検討について」という1章を設ける必要があった。研究・開発の報告書を書く段階において、何故そのような項目を書く必要があるのかについては、私にとって、長い間、その理由は不明であった。
その疑問が解けたのは、書物の名は憶えていないが、バベッジフールという言葉とともに紹介されていた書物に出会ったときである。
『ウィキペディア』のチャールズ・バベッジの項によれば、そのご当人であるチャールズ・バベッジは、イギリスの数学者、分析哲学者、計算機科学者である。
1822年、階差機関 (difference engine) と名付けられた多項式関数の値を計算する機械の設計を開始した。それは、間違いの多い数表を作成することが目的であった。当時の他の機械式計算機とは異なり、バベッジの階差機関は一連の数値を自動的に生成するものだった。有限差分法を使うことで、乗除算を使わずに関数の値を計算できる(信じられないかもしれないが、昭和30年代の計算機でも乗除算のないものがあった)。
1820年代初め、バベッジは最初の階差機関の試作にとりかかった。そのとき製作した一部の部品は、今もオックスフォード科学史博物館にある。この試作機は「階差機関1号機」へと発展した。しかし、完成はせず、出来上がった部分はロンドンのサイエンス・ミュージアムにある。
この階差機関1号機は約2,5000個の部品で構成され、13,600kgの重量で、高さは2.4mとなる予定であった。(スマホの中には、これを遥かに凌駕する機能をもつコンピュータが入っていることを想定すれば、その規模に驚くことであろう) 資金提供も受けたが、完成することはなかった。後に改良を加えた「階差機関2号機」を設計したが、バベッジ自身は製作していない、という。
精巧な設計図は作成したものの、階差機関は実現しなかったわけで、そのような実現しない夢を見る夢想家は「バベッジ・フール」と言われるようになった。
そして、その反省として研究開発の工程に盛り込まれたものが、「実現性の検討」という項目ということであった。その点において、バベッジは貢献したのである。
私は、その恩恵に浴したこともある。ある新方式を開発したときのことである。「実現性の検討」に何を書こうかと考えていたとき、ある条件の下で発生しうる、ある一つの問題、まさに実現性に関わる問題が閃いたのである。そして、その解決策を記し、製品の改良に繋げた記憶がある。
階差機関は、後日開発されることになる。バベッジ生誕200周年の記念事業の一環として、バベッジの本来の計画に基づいて、ロンドンのサイエンス・ミュージアムは実動する階差機関を1989年から1991年にかけて製作した。バベッジの設計にいくつかの細かいミスが見つかったため、それらは訂正する必要があったが、19世紀の技術水準の信頼性や精度に合わせて製作され、動くことが実証されたのである(『ウィキペディア』チャールズ・バベッジ)。
バベッジの階差機関の開発が失敗した理由としては、当時の工作技術力が不足しているという説もあった。しかし、工作技術力というよりは、実際の開発作業を行なった技術者クレメントとの間での確執、すなわち必要とする費用の問題であったという説もある。今日の視点からは、バベッジが当時要求した精度が過剰なものであったという指摘もあるが、そもそも公差という概念ができる前の時代であることを考えると、工作精度といったことより、このような複雑な機械の製作を管理する工学的手法がまだなかったと言える(『ウィキペディア』階差機関)、という。(階差機関の実動や開発の失敗要因の分析などの結果によるのであろうか、インターネット検索で”バベッジフール”というスペルを見出すことが難しくなっている)。
バベッジの弟子に、Adaという人がいる。詩人バイロンの娘である。この人は、バベッジが次に設計した解析機関という機械のプログラミングをしたという説のある人で、1979年、米国国防総省が信頼性・保守性に優れた、主として組み込みシステム向けの言語を作りたいという意図のもとに開発された言語の名前としても知られている(『ウィキペディア』Ada)。