鶯に誘われてシリーズ
継子と鶯
時鳥の鶯への托卵
世の中には托卵(たくらん)という不思議な習性をもつ動物がいる。托卵とは卵の世話を他の個体に托する動物の習性のこと(『ウィキペディア』)。日本では、カッコウ科の鳥、すなわち郭公や時鳥などが該当し、托卵鳥という。
鶯と時鳥は、万葉の時代から和歌などにしばしば詠まれる鳥の双璧であるが、対比されることも多い。鳴き声については、鶯が「玉を転がすが如く――― 高く澄んだ美しい音声のたとえ(『広辞苑』)」と喩えられるのに対して、時鳥は「絹を裂くが如し――― 絹布を裂くとき、高く鋭い音が出ることから、かん高く鋭い叫び声の形容(『広辞苑』)」と喩えられて対比されたり、鶯の春告げ鳥に対して時鳥の夏告げ鳥とが対比されたり、鶯の昼の鳥に対して時鳥の夜の鳥とが対比されたり、また次の和歌のように対比されたりすることなどもあったようである。
- ほととぎすなくべき枝とみゆれどもまたるるものは鶯の声 藤原道綱
因みに、この道綱の母は『蜻蛉日記』の作者である。
鶯と時鳥とは、そのような間柄ではあるが、また時鳥は鶯に托卵するという間柄でもある。このことは、すでに万葉の時代に知られていたことであり、『万葉集』には次の和歌が見られる。
- 霍公鳥(ほととぎす)を詠む歌
鶯の卵(かひご)の中に霍公鳥
独(ひと)り生れて己(な)が父に似ては鳴かず
己が母に似ては鳴かず
卯の花の咲きたる野辺ゆ
飛び翔(かけ)り来鳴き響(とよ)もし
橘の花を居散(ゐち)らし
ひねもすに鳴けど聞きよし
賄(まひ)はせむ遠くな行きそ
我が宿の花橘に住みわたれ鳥
(高橋虫麻呂 『万葉集』九―1755)
『高橋虫麻呂集』は、
- ウグイスの卵の巣で、ホトトギスが、一人ぼっちで生まれた。自分の養父に似た声では鳴かない。自分の養母に似た声でも鳴かない。ウツギの白い花が、咲く野辺から、飛翔してやってきては鳴き声を響かせ、タチバナの枝に止まって花を散らす。終日鳴くがよい声である。贈り物をしよう。だから遠くへは行かないでおくれ。我が家の、タチバナの花に住み着いておくれ。ホトトギスよ。
、と解説する。なお、「たまご」という名前が生まれるのは室町時代である。玉の子ということに由来する。それ以前は、「殻(かひ)の子」という意味で「かひご」と呼ばれていた(Webサイト『語源辞典』)、という。殻に包まれた子という意味であろう。
托卵とは、巣作りや抱卵、子育てなどを他の個体に托す行為で、代わりの親は仮親と呼ばれる(『ウィキペディア』)。托卵鳥は、卵を仮親(被托卵鳥)の巣に産み落とし、抱卵・孵化・子育てを仮親にさせる。一見、要領のよい方法のように考えられるが、子孫を残すという相互の戦いがあり、実は大変なことなのである。
人間にも里子という育て方がある。これは基本的には養父母との合意に基づくものである。しかし、この托卵は相手の親との合意どころか、仮親が産んで抱卵中の卵の一つを自分の卵にすり替え、騙して抱卵や孵化をさせ、子育てをさせるというものである。いわば企んで仮親に抱卵・孵化・子育てをさせることである。
仮親は、巣の中の卵が自分の卵ではないと判断すると、その巣の卵を孵化させるのを諦め、別の縄張りに移動して新たな巣作りを始めてしまう。それ故、托卵鳥は、仮親に自分のものとは異なると判断されない大きさや色つやなどの卵を産む。これは、仮親の卵の特徴が十分に研究され、似せて産むことができて初めて成立する。したがって、仮親の種類を簡単に変えることは難しいのである。
しかも、仮親が巣の中で卵を抱いているときには卵のすり替えはできない。仮親が餌採りに出かけた一寸を見計らって素早くすり替えるのである。仮親やその縄張りの主に見つかると襲われる。まず、托卵鳥は巣の中の卵を一つ口に加えて飲み込み、自分の卵を代わりに産み落とす。これを仮親が戻ってくるまでの短時間に成し遂げるのである。一つの巣では一つの卵しかすり替えをしない。気付かれないための用心であろう。
また、一つの巣では托卵鳥と仮親の卵が混在して抱卵される。このため、托卵鳥は自分の卵が確実に孵化され子育てされる方法を採る。すなわち、托卵鳥の卵は、仮親の卵より一足早く孵化させるのだという。このため、托卵鳥の卵の孵化期間は仮親のものより短くし、かつ仮親が孵化を始めた瞬間を捉えてすり替えを行うのである。このため、托卵鳥は注意深く仮親の行動を観察し対応する必要がある。
一足早く孵化された托卵鳥の雛は、巣の中に残っている卵が孵化されないように、一つづつ巣の外に押し出す。このために、托卵鳥の時鳥の雛の頭には突起があり、その突起を使って一つづつ卵を巣の外に押し出すのだという。
また、托卵鳥の種類は多くないといわれる。これが多くなると、仮親が生存できなくなり、托卵が成立しなくなるからである。自然の摂理はうまくできている。しかし、托卵する相手を変えた例が長野県で発見されている。開発で森が減り、仮親になる種が激減したために取り替えたと見られている。
こういう風に見てくると、托卵をするには、注意深い観察と高度な技術が必要であることがわかる。長い時間をかけて一つ一つ問題を解決し高い完成度に到達したものと思われる。PDCAのサイクルを回し、らせん階段を登って行ったのであろう。こういう進化を片利片害(かたりかたがい)の共進化(『ウィキペディア』カッコウ)、という。
しかし、騙されて子育てをしている仮親も母性本能が働き子育てをしてしまうという。例えば、時鳥の雛は、養母の鶯より大きい。その雛に餌を与えるには雛のいる巣よりは高い枝に止まって餌を与えることが必要になる。時鳥の雛が大きく開けている口に餌を投げ落してやるのだという。こういう奇妙な姿が自然界では観察されるようである。柳田国男は、池の中の鯉が大きな口を開けていたら、飛んでいた鳥が餌を落としてやっていたということを言っている(『野鳥雑記』)。
継子と鶯
托卵によって子育てされる親子の関係は当然継母・継子の関係である。この『万葉集』の和歌も托卵という習性よりむしろ継母・継子の関係に関心を示したものである。万葉の時代は、夫が妻の家を訪れるだけで、同居しない婚姻様式(『広辞苑』)の妻問い婚の時代であったことに関わりがあるのであろうか。
こうして、鶯は継母・継子の説話や昔話に関わってくるのである。
平安時代後期の歌論書『俊頼髄脳(としよりずいのう)』に、「乳のむほどの子供も、昔は歌を詠みけるにや」といって、
- 鶯よなどさは鳴くぞ乳(ち)やほしきこなべやほしき母や恋しき
という和歌が記されている。この和歌には
- これは、幼きちごの、父が、継母につけておきたりけるほどに、土(つち)して、小さき鍋のかたを作りたりけるを、継母が子にとらせて、この継子には取らせざりけるを、欲(ほ)しとは思ひけれど、え乞(こ)はぬ事にてありけるに、鶯の鳴きければ、詠める歌なり。乳なども欲しかりける程にや。幼き人も稚児どもも、むかしは歌を詠みけるとみゆるためしなり。
という注釈がある。その現代訳は下記の通りである。
- 鶯よ、何でそんなにひとり鳴き騒ぐのか。いったい、母乳が欲しいのか。それとも遊び道具の小鍋だろうか。やはり母鳥そのものが恋しいのでしょう。
この歌は、幼な児が――その子は父親が継母に預けておいたのだが――、土で小さな鍋の玩具が作ってあったのを、継母が自分の子には遊び道具として与え、この継子には与えてくれなかった。その継子はそれを欲しいとは思ったけれども、継母が恐く、欲しいとはなかなか言えないでいる時に、鶯が悲しそうに鳴いたので、詠んだ歌である。
まだ母の乳房の恋しい年頃でもあろうか。こんな幼児も乳のみ子でさえも、昔は和歌を詠んだという、一つの実例である。(新編日本古典文学大系『歌論集』俊頼髄脳)
そして、『俊頼髄脳』に50年ほど遅れて成立した歌論書『袋草紙(ふくろぞうし)』には、「幼児の歌」として
- 鶯よなどさは鳴くぞちやほしきこなべやほしきははやこひしき
とあり、
- これは、まま母のもとに在りけるに、ちひさきつちなべの有りけるを、わがはらの子にはとらせて、このまま子にはとらせざりければ、鶯の鳴くを聞きてよめる歌なり。(新日本古典文学大系『袋草紙』)
、という注釈がある。
さらに、平安末期か、遅くても鎌倉初期には成立したと見られる説話集『古本説話集』に「継子小鍋歌の事」として
- 今は昔、人の女(むすめ)の幼かりける、継母にあひて、憎まれてわびしげにてありけり。継母、我方に人のもとより讃岐の小鍋を多く得て、前に取り並べて、見、沙汰しけるを、この子に一つもとらせざけり。
「心憂し」と思ひて、南面の人もなき方に出でて、うち泣きてながめゐたれば、鶯同じ心にいみじく鳴きければ、
鶯よなどさは鳴くぞ乳(ち)やほしき小鍋やほしき母や恋ひしき
とぞ詠みたりける。
かたち、心ばへも美しかりけれども、継母になりぬれば、かく憎みけるなり。
と記される。
そして、その流れは江戸時代まで続く。小林一茶は、『おらが春』に「小鍋の歌」として次のように記す。
- 小さな土鍋のありけるを、我(わが)腹の子にはとらせて、(継子には)とらせざりければ鶯の鳴くを聞きてよめるとなん。
鶯よなとさはなきそちやほしき小鍋やほしき母や恋しき 貫之娘
(『一茶 父の終焉日記・おらが春・他一篇』)
『おらが春』は、和歌の作者を明示しているのということに特徴がある。この作者について調べてみると、すでに鎌倉時代に、西行が『西行上人談抄』に記している。
- 鶯よなとさは鳴きそ乳やほしき
この歌は、貫之が女の九にて詠める也。俊頼朝臣はこの歌を詠じては落涙しけり(『西行上人談抄』)。
ここでは、貫之の娘が9歳で詠んだとあり、『俊頼髄脳』の「こんな幼児も乳のみ子でさえも、昔は和歌を詠んだ」という中の「乳のみ子」は否定されることになる。
こうして見てくると、鶯が小鍋を欲しいと鳴く理由が分かってくる。鶯が同情して鳴いたので、幼児も和歌を詠み意志を継母に告げたという。鶯は継母に知らせる時を告げるという役割を負っているのである。
鶯には、時知らせ鳥あるいは時告げ鳥という異名があり、その例としてみることができる。類似の異名は時鳥にもある。むしろ、時鳥という漢字を当てられているホトトギスが本家であろうと思われる。すでに『万葉集』や『古今和歌集』にも時を告げる例が見られる。
- 暁に名告り鳴くなるほととぎすいやめづらしく思ほゆるかも 大伴家持『万葉集』
- いくはくの田をつくれはかほととぎすしてのたをさをあさなあさなよふ 藤原敏行朝臣『古今和歌集』
『万葉集』の和歌では、暁に自分の名を名乗り告げている。すなわち、「ほととぎす」と鳴いているというのである。因みに、鶯が「うぐいす」と鳴いたという和歌は『古今和歌集』が初出である。また、2番目の『古今和歌集』の和歌は、「しでの田長(たおさ)を朝な朝なよぶ」といっており、田植えの時期を告げているのである。
ところで、小鍋については、新編日本古典文学大系『歌論集』の中の「俊頼髄脳」において遊び道具の小鍋と解釈されている。
『ウィキペディア』玩具の項によると、
- 古代または素朴な社会での玩具は大人が何らかの目的を持って使用した道具が、その意味を喪失したりまたは変化した結果、子供に与えられるようになったと考えられる。子供の側から見れば、大人が執り行った様々な行事や行動を模倣する遊びにおいてこれらの道具を用い、これが玩具となったと考えられる。……。
この例には、日本において特別な日に屋外で食事をする「盆飯」や「辻飯」が変化したままごとがある。
、という。この捉え方から、小鍋はままごとに使用されたのであろうか。
もう一つの見方があるように思われる。それは『万葉集』に見られる文字遊びに由来するものであり、次の句のように解釈する方法である。
- 鶯やさかしまに見る小鍋焼き 奥谷 出
すなわち、鶯という漢字を上下をさかしまにすると、真ん中に鍋のようなもが現れ、その下で火がぼうぼうと燃え、鍋の中には頭からさかしまに飛び込んだような鳥が見える、という構図が描ける。しかし、その鳥は鍋からほとんどはみ出した状態なので、鍋は小鍋ということになるであろう。
鶯の文字遊びから小鍋が導かれるのである。このような考え方もあったのではなかろうか。まだそういう文献を見たことはない。今後検証をして行きたいと考えている。