行く春に思う

鶯に誘われてシリーズ

行く春に思う

 大寒の寒さに震えあがったのはつい昨日のように思えるのに、もう四月尽も間近である。最近の天候や行き交う人の服装にも夏の装いが感じられるのでそれも頷けることであるが、春は本当に早く過ぎ去る。梅の花、河津桜 ⇒ コブシの花 ⇒ 染井吉野 ⇒ 石楠花と次々に花が移り変わり、それが尽きたころには春はもういくらも残っていない。
 今年はコブシの花を追ったのが珍しいことである。鶯の初音を聞いたのは3月末、これは例年に比べて遅い。野歩きを始めたのが遅かったことに原因があると思われるが、それだけでもない。昨年は、裏庭で鶯が鳴いていると騒ぐ妻の姿があったのに今年はそういう姿を見かけない。

 惜春鳥は、「行く春」、「暮春」などの春の終りに、過ぎ去る春を惜しんで鳴く鳥の意から名付けられた鶯の異名である。『古今和歌集全評釈』によると、『古今和歌集』はうつろいを惜しみ、嘆くことが最大のテーマであったといっており、惜春は、春という季節のうつろいを惜しみ嘆くということであるという。「惜春鳥」は、それに沿った名称であり、春告鳥と対になる異名である。
 また、『大歳時記』の「花」では、王朝和歌の世界の花が人生の移ろいを重ねた憂愁の陰翳(いんえい)を帯びていたといっているが、「惜春鳥」にも、春の移ろいに対する愁いが込められているのであろう、という。

 次の和歌は、「惜春鳥」を詠んだものである。
   

  • 声絶えず鳴けや鶯ひととせに二度(ふたたび)とだに来べき春かは
                          藤原興風(おきかぜ)『古今和歌集』

 この和歌は、平安時代前期、寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)で、「春の果て」の題で詠まれたものである。『古今和歌集全評釈』によると、この和歌は、
   

  •  声が途切れることなく、ずっと鳴きなさいよ。鶯さん。一年に二度とやってくる春ではないのだから。今年の春は、もうすぐ終りだから、花があろうとなかろうと、とにかく鳴き続けよと命令し、「ひととせに二度とだに来べき春かは」と反語を使って言いきっている強い語気が印象的である。

という。古代の人々は、春を愛し、自然を愛し、春を惜しみ、季節感のうつろいに一喜一憂して共感していた、という。その背景には、陰陽五行説の正常な輪廻循環の思想が流れていることを垣間見るような気がする。

 次の始めの2つの和歌は惜春鳥を詠ったものである。残りの2つは春を過ぎた時期はずれの鶯を詠んだものである。

  • 春の今日暮(く)るるしるしは鶯の鳴かずなりぬる心なりけり   紀貫之『貫之集』
     鶯は春のものであるので、春を過ぎると鳴かなくなると考えられていた。陰陽五行説に基づく捉え方と思われる。しかし、春は人里で過ごし春の暮れには餌を求めて山に移動する漂鳥というタイプのものもあるので、人里で鳴き声を聞けなくなるということは事実である。
     
  • 谷の戸を閉ぢやはてつるうぐひすの待つに音せで春の暮ぬる 藤原道長『千載和歌集』
     鶯は冬は奥山の谷で過ごすという捉え方を古くはしていた。文学の世界では現在でもその考え方が踏襲されていると思われる。その谷への戸を閉じると、鶯は春になっても人里に現れることはできない。従っていくら待っても、惜春鳥の鳴き声はおろか鳴き声を一切聞けなくなる。そのことを詠っているものと思われる。
     
  • 谷の戸を閉ぢや果てつる鶯の待つに音せで春も過ぎぬる   藤原公任『拾遺和歌集』
     これは当代トップレベルの知識人である公任らしく旧暦の4月1日に詠まれた和歌という詞書がある。春のものである鶯は春過ぎて山の谷に戻ると考えられていたので、谷の戸を閉じるか否かに関わりなくいくら待っても鳴き声は聞こえてこないはずである。一見前述の和歌に類似しているが、1日違いでまったく異なる意味合いが出てくる面白さを詠ったものであろう。
     
  • 鶯の声は過ぎぬと思へども染(し)みにし情(こころ)なほ恋ひにけり 大伴家持『万葉集』
     仲夏の旧暦5月9日に、大和国佐保の自宅において友人の大原今城の送別会を行っている席で鶯が鳴くのを聞いて作ったという詞書がある。「鶯の声は過ぎぬ」といっているので、時期はずれの鳴き声という捉え方をしたものと思われる。それにしても佐保は鶯の名所であり、いつでも聞いていたのではないだろうか。それでも時期はずれと捉えたのは鶯は春のものという捉え方が背景にあったためであろう。

 ところで、中国における惜春鳥の聞きなしは一味違う。新井白石は、『東雅(とうが)』に、

  •  其の春鳥といひしは、惜春鳥、報春鳥などいひしものの類をや云ひぬらん、今試に漢音を操(あやつ)りて、ウグヒスの語を学びぬれば、惜春鳥の莫摘花果(もてくわくわ)と啼くが如く、又報春鳥の春起(しゅんき)春去(しゅんきょ)と啼くが如し、護花鳥の無偸花果(むちうくわくわ)と啼くが如くにもある也といふなり、……。

と記す。花をとるものに対して「莫摘花果」と鳴くというのである。『詩経』の漢詩が、儒教において政治的・道徳的な教訓詩として捉えられた風潮に似ている。なお、新井白石は、鶯の漢字は間違いなので使用せず「春鳥」という漢字を用いる立場をとっていた。
 また、中国伝来の報春鳥は「春起春去」と鳴き、護花鳥(ごかちょう)は「無偸花果」(花を盗むな)と啼いて花を守るというのである。

 江戸時代の百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』によると、唐時代の『諸山記(しょざんき)』に、

  • 鶯は、いつも正、二月になると鳴く。これを春起(しゅんき)という。三月になると鳴き止む。これを春去 (しゅんきょ)という。茶を採る時期である。この鳥のことを報春鳥と呼ぶ。

と記されているという。このことから、「春起春去」は、茶の葉を摘む時期を知らせる鳴き声であることがわかる。また、「春が来た」、「春が去った」と春の区切りを厳格に捉える発想は、陰陽五行説の正常な四季の輪廻循環を守ろうとする思想に由来するものであろう。このように、農事の時期を知らせる聞きなし声であるとともに、春という時期を知らせるということが重なる。

 護花鳥は、明の『戒庵老人漫筆(かいあんろうじんまんぴつ)』の護花鳥の項にも見える。

  • 池州九華山は江南の景勝地で珍しい花が咲き乱れ、その花を折り取ろうとすると、「莫損花、莫損花」(花を損なうな、花を損なうな)と啼く。

という。『東雅』の護花鳥と鳴き声こそ違うものの、花を守ろうという心は同じである。

 護花鳥の対語に愛宕鳥(あたごどり)がある。『角川古語大辞典』によると、

  • 羽風(はかぜ)だに花のためにはあたご鳥おはら巣立にいかがあはせん 『三十二番職人歌合』

に由来する。
 室町時代、鶯の産地は2ヶ所あった。一つは、山城国と丹波国の境にある愛宕山産のもの、「愛宕鳥」である。もう一つは、山城国愛宕郡大原郷産のもの、「大原(おはら)鳥」である。
 和歌の内容は、鶯の鳴合せで手許の愛宕鳥を巣立とうとする大原鳥にどのように対抗させようか、と詠っている(『ウィキペディア』鶯飼)、という。 この和歌における「羽風(はかぜ)」は、はばたきなどによって生じる風のことであり、梅の花が散るのを、鶯が追い討ちをかける意味合いで使い(『大言海』)、「あたご鳥」に「あだ(仇)」を掛けている(『角川古語大辞典』)、という。
 この和歌は、「鳥刺し」と「鶯飼い」という職人に扮した歌人が競ったときの鶯飼い職人の和歌である。この時代にすでに鶯飼いという職人が存在するほど鶯を飼うことが盛んであったことを示す事例ともいえる。
 また、15世紀前半、世阿弥の次男観世元能が父の芸訓を書き起こした書『申楽談儀』(『世子六十以後申楽談儀』、1430年)では、「好色」「博奕」「大酒」とともに「鶯飼ひ」を4悪として戒めている(『ウィキペディア』鶯飼)。
 なお、1520年代の京都の光景が描かれているとされる『洛中洛外図屏風』には、三条西殿の門前で鶯の鳴合せが行われる様子と、当主の三条西公条(きんえだ)らの姿が描かれている(『ウィキペディア』鶯飼)。

 愛宕鳥と同様の発想の和歌が知られている。

  • 木伝(こづた)へばおのが羽風に散る花を誰におほせてここら鳴くらむ 素性法師『古今和歌集』
     「木伝う」という言葉はほぼ鶯に特化された言葉である。鶯が花のトンネルを木伝えば、その羽風で花は散るであろう。これは愛宕鳥の振る舞いである。ところが、この和歌の面白さは、その散る花を見て鶯が鳴いているというストーリーを設定していることである。散る花を見て鳴くという振る舞いは散る花を惜しむということであり、惜春鳥の役割である。それゆえ、花を散らす振る舞いを誰のせいにして惜春鳥の振りをするのかと問いかけているのである。
  • 春霞あみにはりこめ花散らば移ろひぬべし鶯とめよ  『班子女王歌合』
  • あだに散るほどをも待(ま)たで桜花つらくもさそふ春の風かな 遊義門院『新後選和歌集』
     遊義門院には「憂しと思ふ風をぞやがて誘はるゝ散り行く花を慕ふ心は」という和歌がある。春の風を誘うと桜花を散らせる。それは辛いことではあるが、それにも拘わらず春の風を誘うのは「散り行く花を慕ふ心」があるからだという。
     確かに散る花の振る舞いには風情が感じられる。そよ風にひらひらと舞い落ちる花、木の下風にふわっと舞い上がる花、そして、地面を覆う雪とも見紛うように積もる花などはいずれも美しい。

 花に鳴く花見鳥、散る花・行く春を惜しみ鳴く惜春鳥、花が盗られるのを護る護花鳥。そして羽風で花を散らす愛宕鳥は、花に関わるもう一つの鶯の姿であろう。そして、それはとりもなおさず詠う人たちの姿を、ひいては人々の姿を映したものなのであろう。

(奥谷 出)

 


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