言問通りを徘徊する


言問通りを徘徊する

 

 長年気にしていたことではあるが、記念碑「初音の里鶯の記」を見に行こうと思い立ったのは、東京に出かけた帰り際のことである。
 10月とはいえ、まだ日は高く日暮れまでに十分時間はあった。地図等の持ち合わせもなかったので、鶯谷駅近くの交番によって聞くことにした。しかし、鶯谷駅で降りるのは初めてのことであり、さっぱりわからない。とりあえず南口に出て、言問通りとは知らずにその通りに沿って歩いた。途中で一回交番の場所を尋ねたが、幸い、それだけで北口駅前の交番に辿りつけた。遠回りをしてしまったが、迷うこともなく辿り着けたのは幸先がよい証であろうか。

 ここは地名でいうと、鶯谷ではなく台東区根岸。『江戸名所図会』は、

 根岸の里は上野の山蔭にあり、風雅な趣のある土地柄だったので、江戸時代から多くの文人墨客(ぼっかく)が住んでいた。また、日本橋や京橋の大店(おおだな)の別荘などもあり、人々はこの地ののどかな四季を楽しんでいた。鶯の名所でもあった。

、と江戸時代後期天保の頃の根岸の風情を記す。
 根岸の名前の由来は、上野の崖の下にあり、かつて海が入り込んでいた頃、木の根のように岸辺が続いていたためといわれ、江戸時代は寛永寺の寺領であった(『ウィキペディア』)。

 交番の先には有名な言問通りがある。名を知ると、より正確にいうと名と通りとが一致すると、今までとは違うものに見えてくる。不思議なものである。「言問」の名称は在原業平の詠んだ、

名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしや

という歌に因む(『ウィキペディア』)。

記念碑「初音の里鶯の記」
記念碑「初音の里鶯の記」2017

 さて、本来の要件に戻ろう。交番で「江戸時代の記念碑 ”初音の里鶯の記” がある場所を教えて欲しい」と、ストレートに言問いをしてみた。が、さっぱり反応がない。やむを得ず、台東区役所の電話番号を教えてもらい、電話をかけると、「文化財」関係については、別の部署なので電話をかけ直してください、という。そう言って3分ほど遅れて電話番号を伝えてきた。どのくらい待てばよいかと確認したときには5分と言っていたので良心的ではある。
 そして、別の部署に電話をすると、「以前は個人の家の庭にその碑はあった。しかし、今年の初め頃に行ってみたときにはマンションを建てていて、碑は残っていたが、その後の状況についてはわからない」という頼りない返事が返ってきた。
 区役所が掲載している「初音の里鶯の記」碑というWebサイトの記事には、

 啼き合わせは、室町時代の日記・看聞御記(かんもんぎょき)にも記されていますが、江戸で始まったのは文化年間(1804~18)で、まず高田馬場で行われました。次に弘化2年(1845)頃まで向島で盛んに催されました。最後に根岸だったのですが、その年代がはっきりとわかったのは、本碑文の文章によります。それは弘化4年のことで、根岸の里の梅園、現在碑文が建つ地で行われたわけです。明治時代には、鶯春亭(おうしゅんてい)という料亭で開かれたことは風俗画報等で知られていましたが、江戸時代における根岸の鶯の啼き合わせを教えてくれる史料は皆無といってよく本碑文は貴重です。

と記されているが、そのわりには区役所も交番も頼りない。
 「見られたら儲けものくらいの気分で行きますよ」というと安心したように、碑のある場所の住所を教えてくれた。そして、巡査にその場所を地図で確認してもらった。

 なお、その梅園は梅屋敷と呼ばれ、天保14年(1844)に村民小泉富右衛門が開き、弘化2年(1845)2月将軍世子家定が鷹狩の時園中を一覧し(『東京下谷 根岸及び近傍図』梅屋敷跡)、その時に梅屋敷の飼い鶯が大きな声で鳴いたといわれる。

 記念碑は交番を出て言問通りを渡り、尾竹橋通りを歩いて5分くらいの所にあった。マンションらしき建物の入り口脇に建っていて、その一帯は塀で囲まれ、マンションとは区分されている。管理人に断ってから見ようと思い、マンションの入り口まで行ってみたが管理人への連絡方法はまるでわからない。諦めるしかない。

 碑文は日陰で読み難そうであったので、写真だけ撮って引き上げることにした。しかし、実物を見られたという実感は強い印象を残したようである。来てよかったという満足感があった。
 石碑の表に嘉永元年(1848)、裏に翌2年の銘記がある。総高137.5センチメートル。その内容は、表に江戸時代末期に流行した鶯の鳴き声のうまい下手を競い合わせる啼き合わせ(啼合会ていごうえとも)がここ根岸の地でどのように始まったかを記し、裏にこの啼き合わせの会に出品された鴬の名前と出品者の一覧が刻まれるものである(「初音の里鶯の記」Webサイト)、という。嘉永元年は、黒船来航の5年前のことである。
 碑文の文章は、寛永寺子院津梁院(しんりょういん)の僧侶慈広(じこう)が作り、根岸に住んだ書家、関根江山(こうざん)が書を手掛けた。また上部、「初音里鴬之記」の文字は、長崎奉行や勘定奉行を務めた幕臣、戸川安清(やすずみ)が書いたもの(「初音の里鶯の記」Webサイト)、という。
 安清は篆書・隷書(てんしょ・れいしょ)を得意とする書の達人として知られており、家茂の師範を務める程であった(『ウィキペディア』)、という。

子規句碑
子規句碑


 道路を渡り根岸小学校前に来ると、正岡子規の句碑が建っている。

雀より鶯多き根岸かな

 そんなにいたのであろうか。しかし、子規は根岸で往生しているほどであるから、その感覚は正しいのであろう。それにしても、小学校と鶯の取り合せとは何故なのだろうか。ふと、宮沢賢治が浮かんできた。宮沢賢治は、小学生を「まるで鳥の学校に来たようである」と記しているのである。句碑を建てたころの小学生は賑やかであったのであろうか。

 さて、例の交番の近くまで戻って来ると、言問い通りに沿って寛永寺の案内矢印が見えた。ここまで来たついでという思いも手伝って寛永寺に向かうことにした。
 寛永寺は、寛永2(1625)年に、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、天海大僧正によって建立され、寺号として元号を使うことを許されて寛永寺とした。そして、第3代山主のときから皇族を山主に迎えることになり、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院になった(「東叡山 寛永寺」Webサイト)、という。
 この寛永寺も、また鶯とのかかわりが深い寺である。列挙してみよう。

寛永寺 根本中道
寛永寺 根本中道


(1) 正岡子規に次の句がある。

  鶯や木魚にまじる寛永寺

 寛永寺は天台宗。最澄は天台宗とはいわず天台法華宗といっていたという。法華宗の経本は法華経である。そのことを考慮すると、木魚にまじるのは鶯ではなく鶯の鳴き声、「ほう法華経」、そして、木魚も木魚の音、「ぽくぽくぽく」であろう。

(2) 江戸時代、寛永寺の境内地であった上野の森は鶯の名所として有名であり、『東都歳時記』には、上野鶯谷の名前が記されている。

(3) その上野の森を鶯の名所に仕立てたのは、ほかならぬ寛永寺の第5代山主公弁法親王である。この人は皇族出身であり、比叡山延暦寺の天台座主なども兼ねていた。

 上野の森の鶯の鳴き始めが遅く声も美しくないことを悲しみ、尾形乾山(けんざん、光琳の弟)に命じて京都から美声で“はや鳴き”の鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥した。このため根岸の鶯は美しい声で鳴くようになり、江戸府内でも最初に鳴き出す“初音の里”として名所になった。鶯谷の地名はこれに由来しているとされる(『ウィキペディア』)。

という。
 法親王は、東(あずま)の鶯は訛りがあると言ったという説もある。この訛りに関しても、狂歌、俳諧や川柳で詠われた時期があった。鶯は美声を愛でる鳥であるが、それに限定していないところが不思議なところである。鶯は奈良時代、出雲の鶯を考えると、それよりはるかに昔から現在まで最も親しまれている鳥であることの一端を垣間見たような気がする。

なまらざる鶯や法華(ほけ)京言葉  (正忠『五条之百句』)

 『五条之百句』は、江戸時代初期、寛文(かんぶん)3年(1663)に作成された俳諧集である。鶯の雅やかな美声は、京言葉に対比されていたのであろうか。この法華京言葉は、そんなことを彷彿させることばであり、また、法華経、鶯の鳴き声”ホーホケキョ”が掛けられている掛詞である。この俳諧を見ていると、公弁法親王のとった行動にスムーズに結びつき、理解しやすい。。

(4) 第11代将軍徳川家斉(いえなり)が亡くなったとき、江戸の町に次の落首があったという。

芝枯れて上野はほんに花盛り鶯谷にほう法華経の声 (『浮世の有様』)

 徳川家の菩提寺として、芝の増上寺と上野の寛永寺とがあり、交互に使うしきたりがあった。ところが家斉は増上寺ではなく寛永寺に葬られたことから詠まれた落首である。「上野はほんに花盛り」も「鶯谷にホーホケキョ」も寛永寺が盛時であることを示している。しかも、ホーホケキョは一期の声ともいわれるが、その声とも符合する。

(5) 江戸で鶯の鳴き合わせが始まった文化年間は、しきたりを崩して寛永寺に葬られた徳川家斉の治世であり、その奢侈な生活が化政文化という江戸最大の文化を生み出したといわれる。そして、江戸の鶯の鳴き合わせはその文化の中で生まれたのである。

(6) 寛永寺は江戸城の丑寅(東北)の方向に位置する。丑寅は陰陽五行説によれば鬼門であり、比叡山延暦寺と同じく、寛永寺は鬼門除けに建てられた寺なのである。そのため、山号も東の叡山を意味する東叡山という。(なお、陰陽説では、鬼門は陰と陽の境目で不安定になると説明されている(『ウィキペディア』)。
 しかし、陰陽五行説では、ほかにも丑寅がある。季節に関しては冬と春の境界、月に関しては旧暦12月と1月の境界、時刻に関しては丑の刻(夜中の2時)と寅の刻(夜中の4時)の境界、すなわち3時。これらはすべて丑寅の境界、すなわち谷であり、この丑寅の谷を渡る鳥が鶯なのである。鶯の谷渡りの語源であろうか?
 このように見てくると、寛永寺と鶯は丑寅でも結びつくのである。

 しかも、冬と春の谷を渡って来て春を告げる春告鳥・報春鳥、丑寅の刻(夜中の3時)を渡って夜明けに鳴き興じる紫鶯・乱鶯・狂鶯、旧暦12月と1月の谷を渡って新年を告げる新鶯などは、鶯の異名であり、漢詩や和歌で詠われ、鶯の生態とも不思議なほど一致する。
 鶯のいろいろな特徴は、故人たちによってよく把握されてきたということができるのであろう。このような深い洞察を通じて鶯への親しみが深まり、より深いまたは広い把握へと進み、らせん階段を上って行くのであろう。

江戸時代の花見行列
江戸時代の花見行列


 さて、記念碑のある尾竹橋通りから言問通りに曲り、JRの跨線橋を渡って一路寛永寺へ。寛永寺の境内地は、明治維新で十分の一に削減されたようであるが、その狭くなった境内を一回りして根本中道の境内で江戸時代の花見行列などの浮世絵の掲示を見てから谷中へ向かった。

 ちなみに、神仏分離令が発令されたのは、上野戦争の直前、慶応4年3月(1968)のことである。当時の寛永寺の山主は絶大な力を持ち彰義隊を援護していた。それを恐れた新政府軍は、寛永寺の山主の力を削いでおくことが必要と考え、神仏分離令を発令したといわれる。
 神仏分離令に続き、明治3年1月(1870)に出された詔書「大教宣布」をきっかけに廃仏毀釈運動が起こり、仏教は仏像や仏具の破壊などの甚大な被害を受ける(『ウィキペディア』)。

 この影響は、ほう法華経と鳴く鶯にも及んだことが考えられる。現在、鶯の鳴き声「ホーホケキョ」から仏教の法華経を連想する人はどれほどいるのであろうか? ほとんどいないといわれている(『ちんちん千鳥の鳴く声は』)。
 仏教の興隆の中で生まれた「ホーホケキョ」の鳴き声は、江戸時代初期には、

鶯の声にはだれもほれげ経 (『毛吹草』)

と、「法華経」と「ほれる」を掛けて聞くほどに愛でられるが、明治維新の廃仏毀釈運動とともに人心が仏教から離れ、鶯も仏教から離れていったものと推察される。このことは、「ホーホケキョ」の鳴き声が聞きなしであることを考えると理解できる。

 そして、再び鶯に「ホーホケキョ」の鳴き声が蘇ってくるのは、明治に始まる唱歌教育であろうと思われる。明治20年(1887)に発行された『幼稚園唱歌集』に伊沢修二の「花さく春」がある。

花さくはるの。あけぼのを。
はやとくおきて。見よかしと。
なくうぐひすも。こゝろして。
人のゆめをぞ。さましける。
ホーホケキヨ ホーホケキヨ。ケキヨ。
ケキヨ ケキヨ ケキヨ ホーホケキヨ。
ホーホケキヨ ホーホケキヨ。
ケキヨ ケキヨ ケキヨ ケキヨ
ホーホケキヨ

 「ホーホケキョ」の鳴き声を取り入れた唱歌は、その後、滝廉太郎の口語体の「ほーほけきょ」(『幼稚園唱歌』)が続き、昭和16年(1941)林柳波の「ウグイス」(『ウタノホン 上』)まで続く。

ウメノ小枝デ ウグヒスハ
春ガ来タヨト ウタヒマス
ホウ ホウ ホケキョ ホウホケキョ
ホウ ホケキョ  

雪ノオ山ヲ キノフ 出テ
里ヘ来タヨト ウタヒマス
ホウ ホウ ホケキョ ホウホケキョ
ホウ ホケキョ

 次の句は変節した鶯のイメージをよく示していると思われる。

鶯や文字も知らずに歌心  (高浜虚子『五百句』)

 明治維新に始まる廃仏毀釈運動と唱歌教育が、鶯を経読鳥から歌心のある鳥、すなわち歌心鳥へと変節させたものと思われる。

 しかし、明治に失われたものは仏教観だけではなかったのである。
 俳句の革新を行った正岡子規は、短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載し、『古今和歌集』や紀貫之などを激しく非難し、当時の和歌の姿勢を批判したのである(『ウィキペディア』)。このために、『古今和歌集』や『新古今和歌集』などで培われた雅さは失われ、『万葉集』の写実的な和歌が尊ばれるようになっていくのである。
 このことは、『古今和歌集』の仮名序に、

花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける

と記され、歌詠み鳥との異名もある、鶯にも影響を及ぼさないはずはない。鶯から歌詠み鳥や宮の鶯などの雅な異名が消えていくのである。宮の鶯(宮殿に住む鶯の意)の異名は、唐代の白居易の『白氏文集』「上陽白髪人」に見られ、平安時代の王朝文学に大きな影響を与えた。『源氏物語』では、光源氏や明石の姫君を鶯に喩えているが、これは宮の鶯の発想によってよりよく理解でき、また『平家物語』「厳島御幸」に

梢の花色おとろへて、宮の鶯声老いたり。

と記され、仏教の無常観を説く一節として知られている。鎌倉、室町、江戸の各時代においても引用され、江戸時代には「上陽白髪人」を箏曲化した「宮の鶯」が生まれている。

 このように、鶯は、経読鳥、歌詠み鳥から歌心鳥に変節し、新たな歩みを始めるのである。
 これは、私の提唱する「鶯の鳴き声”ホーホケキョ”の5段階進化説」の最終段階の説明である。鶯も明治維新に変遷していたのである。

 さて、谷中も『東都歳時記』に谷中鶯谷と記されている、鶯の名所である。

谷中感応寺
谷中感応寺

 ここの感応寺は、鎌倉時代に建立された古刹であるが、日蓮宗の不受不施派という宗派に属していたため、江戸幕府によって弾圧され、元禄11年(1698)に日蓮宗から天台宗に宗派替えをさせられた寺である(『ウィキペディア』)。

   鶯は昔のままの感応寺

 鶯の声はそう変化するものではないので一見しただけでは面白みはない。しかし、宗派替えになった故事から考えるとよくわかる。宗派替えになっても読経の声が変わらなかったのであろう。日蓮宗も天台法華宗も同じ法華経を経本としており、鶯は法華経を唱える法華宗の僧の異名でもある。この川柳は、そのことを踏まえて詠まれたものと思われる。
 そういう思いから感応寺を訪ねたが、家に帰って再度調べてみると間違いであることがわかった。昔の感応寺は今は天王寺。すでに名前を変えていたのである。そういうことをすっかり忘れていたのである。天保4年(1833)に「長耀山感応寺」から「護国山天王寺」に改称したのである。
 なお、谷中は天王寺の門前町として栄え、現在も初音の森という名称は残されているようである。現在の谷中5丁目の山あい、霊梅院や長明寺がある一帯は「初音の森」と言われ、鶯谷とも呼ばれていたという記事がWebサイトに見える。そして、幸田露伴の『五重塔』のモデルは、この寺の境内にあったものであり、江戸名勝図会に描かれている。

 そのあと、根津を通り上野公園に向かう。
 根津にはホトトギスがいたといわれる。『東都歳時記』には、

江戸の辺はこの鳥多しといへども、とりわけ西の方は樹林繁きがゆえにこの鳥多く、また啼く事早し。

と記され、鳴き声の名所として、小石川白山の辺、高田雑司ヶ谷、四谷辺、駿河台、お茶の水、神田社、谷中、芝増上寺の杜、隅田川の辺、根岸の里、根津の辺があげられている。隅田川の辺を除けば、すべて山の手。
 ホトトギスは、鶯に抱卵・子育てをさせる托卵(たくらん)という習性があるので、鶯のいる近くに住むのである。

 根津と言えば、20代の頃、東京大学の大型計算機センターに1号機が納入され、センターに用事できたとき、ときどき飲食した思い出がある。ある時生ガキを食べることになり往生した苦い記憶もある。

 そんな感傷に耽りながら上野公園に入って行くと、さつき祭が行われており、屋台もでている。マスの串刺しを炭火の周りに並べて焼いている。昔懐かしい光景があった。母の実家に行くと、祖父が捕ってきたマスの串刺しが囲炉裏の周りに立てて並べられていたのである。その時の光景がまぶたに重なってくる。さっそく一串賞味した。塩味もよく、懐古の思いも手伝ってうまい。

さつきの盆栽
さつきの盆栽

 そして、さつきの展示を見る。この時期にさつき祭、さつき展とは、見るより先に不思議が躍る。係の人に「なぜ秋にも展示をするのか」と尋ねると、さつきは盆栽の姿・形が良いので秋にも展示会が行われるのだという。春に見る花の盆栽とは確かに一味違うようだ。春と秋の2回展示が行われるのはさつきしかないとも言った。そして、都立美術館で行われている盆栽展の招待券をいただいたので出かけた。文部大臣賞やら都知事賞などに輝く素晴らしいさつきの盆栽を鑑賞させてもらった。惜しむらくは、電池切れでカメラが作動してくれなかったことである。半日言問いの徘徊を楽しんだが、それだけは残念であった。素晴らしさは人それぞれの思いに委ねたい。

 美術館を出るともう薄暗い。すぐに上野駅公園口に向かった。

(奥谷 出)


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